八重が結んだ葵高校との絆

2013/11/26

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

「八重の桜」でいきなりマスコミの注目を集めた学校があります。それは福島県立葵高等学校です(「葵」は旧藩主松平家にちなんだもの)。どうしてかというと、そこに八重の自筆の書が4幅も所蔵されていたからです。現在は共学ですが、葵高校の前身は会津高等女学校でした。そのもっと前は、クリスチャンである海老名リンが設立した私立若松女学校でした。会津藩出身の八重とリンは、キリスト教と女子教育で共通していたのです。

昭和3年、戊辰戦争からちょうど干支が一回りした年の5月16日、その会津高等女学校の生徒が修学旅行で京都にやってきました。八重は会津藩に関係の深い黒谷西雲院で生徒達に訓話を行い、「本当の美人は心の美しい人のことだ」と語ったそうです。当時の八重は、単なる新島襄の未亡人ではありません。日清・日露戦争の折に日赤の篤志看護婦として活躍したことが認められ、勲6等宝冠章を授与された立派な女性だったのです。

それが縁になったのでしょう。同年9月28日に、松平容保公の孫娘勢津子姫と秩父宮殿下との御成婚が行われましたが、それを記念して会津高等女学校では、「歴史的書画展覧会」が開催されました。その展覧会に八重の書が展示されたのです。それは次の3幅です。

萬歳々々萬々歳 八十四歳八重子

美徳以為飾 八十四歳八重子

ふるさとの萩の葉風の音ばかりいまもむかしにかはらざりけり 八十四歳八重子

この時八重は数えで84歳でした。展覧会終了後、この3幅はそのまま女学校の所蔵となったのでしょう。このうち「美徳以為飾」については、別のコラムで扱っています。「萬歳々々萬々歳」については、最近になって風間健氏が同じものを所蔵されていることが明らかになりました。八重はこれを同時に二枚書き、一枚を女学校に送り一枚を風間久彦(健氏の父、会津出身)に与えていたのです。できることなら二枚並べて展示してみたいですね。

その2年後の昭和5年4月(数えで86歳)に八重が会津若松市を訪れた際、会津高等女学校で講演を行っています。その折に八重のもっとも有名な和歌、

明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月影 八十六歳拙筆

が揮毫され、やはり女学校に寄贈されたようです。そんなわけで葵高校には、八重自筆の書が4幅も所蔵されているのです。公立高校としてはきわめて珍しいケースだと思われます。

しかしながら昭和7年に八重が亡くなった後、この書のことは長い間忘れられていたようです。それがひょんなことから再び日の目を見ることになりました。そのきっかけの一つは、どうやら本学の森田潤司元学長が作られたようです。2007年に会津若松市で開催された同窓会に出席された森田先生は、たまたま葵高校の生徒さんが同志社女子大学に入学するということから、葵高校にある八重の書が話題になったようです。翌日その書を見学された森田先生は、Vine45に「きずなの探訪」としてそれを紹介されています。森田先生はその中で「きずなは今も守られています」と結んでおられますが、もし森田先生が葵高校を訪れていなければ、本学との絆は結べなかったかもしれません。

そういった経緯があったので、加賀学長を含めた新島八重研究会のメンバーは、葵高校を表敬訪問しました。「八重の桜」はいずれ終了しますが、葵高校との縁はこれからも長く続いてほしいと願っています。せっかく八重と森田先生がつないでくれた絆ですから。

 

※所属・役職は掲載時のものです。