八重は大食漢?

2013/10/21

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

かつて「新島襄の食い道楽」という一文を書いたことがあります(日本語日本文学会会報24)。またこのコラムに「襄の蕎麦好き」を載せています。そこで今回は「八重は大食漢」に挑戦してみます。

とはいえ、八重の人生を丹念に調べてみても、八重が大食漢だったという資料は見つかりません。特に会津時代(人生の前半)は、力持ちだったということはわかっても、若い頃から肥っていたかどうかさえもわからないのです。さらに襄と結婚した頃(30歳)の写真を見ても、そんなに肥っているようには見えません。

ですから私など、八重は襄と結婚したことで肉と甘いものを日常的に口にするようになり、そのためみるみる肥ったのではないかと想像しています。それにしても新島夫人時代においても、八重が大食漢だったという資料は見当たりません。市販されている多くの八重本を見ても、八重の食欲に言及しているものはなさそうです。

ところが最晩年に至って、八重の大食漢ぶりが俄に浮上しているのです。八重の「病状経過並に臨終」記事を見ると、

斯くて(昭和七年)四月二十五日米寿の茶筵を太秦なる大沢別邸に催されたる頃より米飯を取り、食事大に進みたり。然る所従来発病の原因は常に食量過多、歩行度を過ぎたるより起こる疲労に在りしが、      

(『追悼集Ⅴ』55頁)

云々とありました。疲労も重要ですが、ここでは「従来発病の原因は常に食量過多」とあるところに注目してみましょう。これは決して冗談で書かれたものではありませんから、この記述こそは八重の大食漢ぶりを示す一等資料ということになります。

ついでに「米寿の茶筵」とあることにも留意しましょう。八重は亡くなる直前の6月11日と13日にも茶筵に参加しています。その茶筵から「帰宅後嘔吐数回激烈なる腹痛あり」(同頁)というのですから、あるいはその茶筵でもひょっとすると食べ過ぎたのではないでしょうか。晩年に八重が茶道に熱中したのは、単に茶道を究めていたというだけでなく、茶会に付きものの懐石料理に惹かれていたから、と見るのは考えすぎでしょうか。

この記事と符合するものが『徳富蘇峰』にも出ていました。蘇峰自身の著作には見られませんが、蘇峰の顧問弁護士だった早川喜代次氏がまとめた『徳富蘇峰』には、

あくまで健啖家(けんたんか)で付近の仕出屋の「石吉」からよく大きな弁当を取った。果物が大好きで蜜柑・梨・イチゴ等は人の三倍も食べた。氷水も一度に三杯は少ない方であった。友の家でパイナップルを食べ過ぎ腹をこわして大騒ぎしたこともあった。             

(477頁)

と記されていたのです。あまりに内容が面白すぎて、思わず吹き出しそうになりました。ですからこれをそのまま信用していいのかどうかためらわれます。それにしても「大きな弁当」・「人の三倍」・「一度に三杯は少ない方」とあるのですから、八重が大食漢だったことは蘇峰も承知していたのでしょう。

もちろん八重が果物好きだったことは、他にも証拠があります。例えば昭和4年12月6日の風間久彦宛自筆書簡には、

みかん山に御出は実に実にうら山敷、よだれたらたらに御座候。

と記されています。宇和島高等女学校の数学の教師として赴任した久彦(京都会津会会員)からみかん狩りに行ったという手紙が来て、その返事として八重が書いたものでしょうが、「よだれたらたら」というのはすごい表現ですね。

いかがでしょうか。少ない資料ではありますが、八重も襄と同じように食べ物には人一倍関心があったと言えそうですね。やはり二人は似たもの夫婦だったのです。

 

※所属・役職は掲載時のものです。