<新島>の名前をめぐって

2013/09/19

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

新島襄が眠る若王子の墓地へ行ってみると、正面に妙に立派な墓石が目に入ります。最初の墓石が昭和61年に壊れたので、新しく作り直したからです。そこに「新島襄之墓」と書かれていますが、よく見ると「島」の横棒が一本足りないことに気づきます。これを揮毫した勝海舟が、勢いで書いたものだからと、書き直さないままになっているためです。

その墓の向かって左に、ちょっと小ぶりの古びた墓石があります。それが襄の妻八重の墓です。どうして夫婦なのに、一緒の墓に入っていないのかと不思議に思いませんか。それでよく見ると、「新嶋八重之墓」と書かれていました。夫婦二人の墓が別々なだけでなく、そこに彫られている名字も、「新島」・「新嶋」と異なっていたのです。新島襄研究の第一人者である本井康博氏によると、戸籍は「新嶌」となっているので、それを含めて三様の表記が存することになります。どれが正しいのかと聞かれても困ります。どれも間違っているわけではないからです。おそらく統一する気がなかったのでしょう。

「新島」に関しては、ローマ字というか英語表記にも問題があります。普通には「Niijima」と綴りますが、本人も八重も「Neesima」とサインしているからです。それをどう発音するのかというと、「Niijima」なら「ニイジマ」であり「Neesima」なら「ニイシマ」でしょう。大きくは「島」を清音で読むか濁音で読むかということになります。

これもどっちが正しいのかは明確ではありません。現在だって連濁は両用ありえますよね。中には上州訛りでは「ニイシマ」だが、京都では「ニイジマ」と発音するという説もあります。しかし襄は江戸生まれだし、八重は会津です。そうなるともう少し広げて、関東(東日本)では「ニイシマ」、関西(西日本)では「ニイジマ」ということになるのでしょうか。もっとも当の本人は、そんなことにこだわっていなかったに違いありません。

襄の名前の方にもふれておきましょう。かつて「七五三太」は幼名で、「襄」が本名と説明されていました。しかしそれは明らかに誤りであり、「七五三太」こそは本名でした。ところがアメリカから帰国後、「ジョー」の宛字として「襄」を用いるようになり、そして群馬から京都へ戸籍を移す時に、戸籍を「襄」と改名したようなのです(その際、身分も士族から平民にしています)。

妻の「八重」については、「八重子」と「子」を付けたものもあります。こちらは慣用表現で、本来「子」は付いてなかったのですが、付いていても気にしなかったという以上に、自身で「八重子」と表記したりもしています。これも許容範囲ということで、外野が目くじらを立てるほどのことではなさそうです。

ついでながら、八重は京都に来ても会津弁のままでした。それが表記にも反映しているようで、「二階」を「にかへ」と書いた例があります。また和歌で「長らえて」を「長らゐて」と表記しています。甚だしきは自分の名前を英語で「Yai」(やい)と綴っています。東北弁では「え(へ)」と「い」が曖昧というか入れ替わることもあったようです。また「Yaye」という表記もあり、これだと「やゑ」と発音することになります。面白いですね。

 

※所属・役職は掲載時のものです。