川崎尚之助の復権をめざして

2013/08/27

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

大河ドラマ「八重の桜」で、川崎尚之助のやさしさが目につきますね。かつて同志社では、尚之助の存在は、ほとんど知られていませんでした。というより、ほとんど言及されなかったというのが正解でしょうか。というのも、会津若松における八重の存在は、同志社にとって必要なかったからです。それ以上に、八重が川崎尚之助と結婚していたという事実が、新島襄の妻の履歴として好ましくないと判断されていたのかもしれません。

ですが「八重の桜」によって、八重が再婚だということは全国的に知れ渡りそうです。大河ドラマによって、川崎尚之助に対する関心も高まっているのではないでしょうか。実は同志社のみならず、会津若松においても、尚之助に対する関心は低かったようです。いや低いどころか冷たかったようです。その第一の原因は、尚之助が会津藩士ではないと見なされていたからです。そのため会津開城に際し、会津藩士以外は無罪放免になっているので、尚之助はその後行方不明になったとされていました。

幸い「八重の桜」効果によって、尚之助が会津藩士であった資料が発掘され、開城後も会津藩士として東京で謹慎生活を続けた後、斗南藩士として斗南に移住していたことまで明らかになっています。ですから会津若松では、そのことをきちんと反省・公表し、あらためて尚之助を会津藩士・斗南藩士として復権させていただきたいのです。これが一つ目の復権です。

実は尚之助については、会津会会報に古川末東氏がその消息を語っていたのですが、何故かあまり引用されていません。

川崎尚之助は初め正之助と称し、尚斎と号す。但州出石藩医師の子なり。我藩に来り藩祖土津(はにつ)公の諱を避けて之を改む。〈中略〉尚之助は性洒落才気縦横適(ゆ)くとして可ならざるはなし。和歌を能くし且つ翰墨に巧みなり(大沼親光談)。斗南に移りし後、大に為す所あらんと欲す。而て事外人に連り却て累を受けしが、事遂に解く(小川渉筆記)。廃藩の後、東京に出て浅草鳥越に寓す。〈中略〉明治八年六月下浣病て東京に没す。享年三十九。浅草区今戸町称福寺に葬る。子なし弔祭するものなし。

「古川春英と川崎尚之助」(會津会々報20・大正11年6月・25頁)

これが尚之助に関する古い情報のすべてと言えます。これによって出自が出石藩の医師の子であること、「正之助」を保科正之に遠慮して「尚之助」に改名したこと、明治8年に東京で亡くなったこと、享年39であること、浅草の称福寺に埋葬されたことなどがわかります。出自を出石藩士あるいは藩医の子としているものもありますが、それはこの文面を曲解したものです。

この中で、斗南に移住した後「事外人に連り却て累を受けし」とあるのが気になります。実は「八重の桜」効果か、作家のあさくらゆう氏によって、尚之助の裁判記録が発見・報道されました。それによれば、尚之助は斗南藩の窮乏・飢餓を救うため、外国との米の先物取引に手を染めたのですが、仲間(米座(よねくら)省三)に裏切られたことで、デンマーク人のデュースから詐欺罪による損害賠償の訴訟を起こされていたのです。

しかし当時の斗南藩に賠償金を支払う余裕などなかったので、藩は尚之助を切り捨てました。尚之助もまた斗南藩とは無関係に自分が勝手にやったことだと主張し、一人で罪を被ったのです(当然八重とも離別)。尚之助は思った以上に立派な人だったのです。こんないい人を埋もれたままにしておいていいのでしょうか。

それだけではありません。それ以上に奇妙なことがあります。この事件に関して、これまで柴太一郎の美談として語り継がれているからです。そのため尚之助については、何故か一切捨象されているのです。しかし裁判記録にはっきり尚之助の名前が記載されているのですから、尚之助を中心に据えた形で書き改められるべきでしょう。これが二つ目の復権です。あるいはこの裁判と連動して、尚之助は会津藩から除名・排除されたのかもしれません。もしそうなら、尚之助の汚名をそそぐという以上に、会津藩そのものが厳しく問い直されることになります。「八重の桜」は両刃の刃なのかもしれません。

最後に尚之助の死亡については、裁判記録に明記されていました。それによって6月ではなく、3月20日に慢性肺炎で亡くなっていたことがわかりました。会津会会報には「事遂に解く」とありましたが、尚之助は被告人のまま亡くなっていたことになります。八重はその1ヶ月後に運命的に襄と出逢い、10月15日に婚約、翌年1月3日に結婚しています。八重の心中が気になるところですが、八重が尚之助のことを語ることは生涯ありませんでした。

 

※所属・役職は掲載時のものです。