イザベラ・バードの証言

2013/07/04

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

まさに「灯台もと暗し」でした。同志社女子大学のホームぺージを開いて、宗教部だよりの中のチャペルアーカイブ「130年を語りつぐ」を見ると、そこに宮澤正典先生の「W.S.クラーク、イサベラ・バード、ヘルマン・ヘッセ」というコラムが出ています。

恥ずかしながらそれを読んで、アメリカの女性探検家イザベラ・バードが、『日本紀行』の中で八重や同志社女学校について書いていることを知りました。さらに京都大学の金坂清則教授が、同志社時報119(2005年4月)に「イザベラ・バード─埋もれていた史上屈指の女性旅行家と同志社との関わり─」を掲載されていることもわかりました。これを参考にして、あらためて『日本紀行』の記事を紹介します。

1878年(明治11年)9月16日、常磐井殿町(二条家跡)に女学校の校舎が新築され、そこで新学期が始められました。その直後の10月に、イザベラ・バードが京都を訪れ、ギューリック夫人の斡旋で、二週間ほど女学校の二階に宿泊したのです。そのことは『日本紀行下』(講談社学術文庫)の「第52信10月30日京都、二条さん屋敷にて」に詳細に報告されています。まず京都で二週間過ごしたことが、

こちらへはギューリック夫人と二週間前に来ました。ひとり宿屋に泊まって二、三日すごすつもりだったのですが、着いてみると、こちらに滞在するよう手配されており、滞在先の夫人やノグチ氏とともに数々のすばらしい名所旧跡を訪ねて二週間をすごしました。           

(274頁)

と記されています。イザベラ・バードが滞在したのは、完成したばかりの同志社女学校(NIJYOSAN YASHIKI)でした。

わたしの滞在先はアメリカ式の女子ミッション・スクール[同志社女学校]で、障子の代わりにガラス戸の入ったとても大きな準和風の建物なのですが、雨戸がないためとても寒い。                          

(276頁)

我々日本人の目に女学校は西洋風建築に見えますが、バードはガラスを用いた「準和風」と述べています。なお「滞在先の夫人」について金坂氏は、

ここで彼女の世話をした女性とは女学校の舎監をしていた山本佐久つまり山本覚馬・八重兄妹の母、すなわち新島襄の義母だった。『バード日本紀行』が充てる「おかみ」という訳語では、バードの旅は正しく理解できない─女将とは宿屋の女主人のことである。佐久なればこそ、バードを世話し、「大変多くの名所」に案内した。

と解説しています。これによればバードは佐久とも親しくしていたことになります。

続いて当時の同志社女学校について、

女の子50人分の部屋がありますが、校長であるスタークウェザー嬢しかおらず、アメリカ人助手のいないままになりそうなので、現在生徒の人数は18人に限られています。この学校は実業教育を行っており、スタークウェザー嬢は生徒たちが日本の礼儀としつけの作法に留意するよう強く望み、心を砕いています。 

(276頁)

と記しています。校長は新島襄のはずですが、バードにはスタークウェザーが校長(経営者)に思えたのでしょう。この時期まだ教員や生徒数が少なく、二階に余裕があったので、バードが滞在できたわけです。日本流の礼儀やしつけというのは、スタークウェザーではなく舎監であった佐久や八重が教えていたのかもしれません。

またバードは、新島邸にも招かれています。

昨日の夕べ、仏教門徒宗のもっと御影響力を持つ僧侶、赤松[連城]氏との楽しい対談のあと、わたしは新島夫妻の気持ちのよい和風の家へお茶をいただきに行きました。お茶はテーブルに載っており、わたしたちは椅子に座りましたが、外国人のお宅でいただく食事とはえもいわれぬ美しい磁器が使われている点以外、ちがいはなにもありませんでした。                         

(283頁)

ここでもバードは、新築の新島邸を「和風」としています。もちろん中は洋間であり、テーブルにお茶が載せられ、椅子にすわってお茶をいただいています。そしてバードは八重のことも、

新島氏夫人は[同志社]女学校で裁縫を教えており、和服を着ています。 

(283頁)

と評していました。これによってこの時八重が和装であったこと、女学校で裁縫を教えていたことがわかります。おそらく結婚当初の写真のような和服ベースの衣装だったのでしょう。襄の年譜(新島襄全集8)にはこの記事が漏れているようなので、イザベラ・バードの証言は、明治11年の女学校ならびに八重の動向を知ることのできる貴重な資料だと思われます。

 

※所属・役職は掲載時のものです。