絶滅寸前の「いろはかるた」

2013/03/21

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

ことわざには、正反対の意味を有するものがたくさんあります。「下手の横好き」とも言うし、「好きこそものの上手なれ」とも言いいます。「蛙の子は蛙」とも言うし、「鳶が鷹を産む」とも言います。また「血は水よりも濃し」とも言うし、「遠くの親類よりも近くの他人」とも言いいますね。どちらも真実なので、その場その場で上手く使い分けているのです。それが昔の人の知恵だったのでしょう。

また同じことわざに、2つの相反する意味が担わされているものもあります。「情けは人のためならず」がその好例です。本来は、人に親切にしておけば、必ず自分にもいい報いがあるという意味でした。ところが表現のあいまいさをつかれて、別の意味が付与されてしまったのです。新解釈では、むやみに人に親切にするのは、その人のためにならないという意味になります。

同様に有名な「犬も歩けば棒にあたる」も、両義的に解釈されるようになっています。本来は、用もないのにうろうろしているとひどい目にあう、だからじっとしていろという意味でしたが、明治初期の「新板いろはたとへ双六」(大橋堂)を見ると、「棒」が「坊」に置き換えられ、さらに子どもから菓子をもらっている犬の絵が書かれています。しかも画面の中に、「犬曰く、しめたしめたあるけばかほう(果報)にありつく」とあるのですから、出歩いていると思わぬ幸運にありつくという新解釈になっていることが読み取れます。これも表現のあいまいさを逆手にとって、マイナスからプラスに意味を変化させているのです。

最近は、どこの家庭でも「いろはかるた」で遊ばなくなっているようですね。ゲーム機の広がりによって、一家団欒の場は奪われてしまったのでしょう。子どものころに「いろはかるた」で遊んでないと、そこに盛り込まれていることわざに接する機会も逸してしまいます。そのため大学の授業で、あなたの覚えている「いろはかるた」の「い」のことわざは何ですかと尋ねても、知らないという答えが急増しています。

こちらの目論見としては、「犬も歩けば棒にあたる」なら「江戸いろは」、「一寸先は闇」なら「京いろは」という風に、ことわざの違いによる地域性を確認したかったのですが、知らなければ話はそこで終わってしまいます。現在、百人一首かるただけは競技かるたとして生き残っていますが、昔流行った「花札」や「いろはかるた」は、文化としてもはや「風前の灯火」のようです。いわばかるたの絶滅危惧種なのです。

さて、このまま手をこまねいて途絶えるのを待っていていいのでしょうか。それともトキのように、保護活動を積極的に推し進めるべきなのでしょうか。京都は「いろはかるた」の始発とも言うべき「京いろは」発祥の地であるだけに、遊びながら学べる庶民の知恵を絶滅させるのは惜しい気がしてなりません。

 


※所属・役職は掲載時のものです。