蜘蛛の巣は物の怪!

2013/03/21

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

『あさきゆめみし』は、大和和紀(やまとわき)が手掛けた源氏物語の長篇マンガです。絵の美しさと内容の面白さがマッチして、多くの読者に親しまれています。中には簡単に源氏物語のあらすじを知ろうとして読む人もいるようです。しかし『あさきゆめみし』は、必ずしも源氏物語のマンガ訳にはなっていません。『あさきゆめみし』は、それ自体作品として傑作なのです。むしろ源氏物語と比較して、その違いをこそ楽しんでほしい本です。

私が最も感心したのは、六条御息所の物の怪(生霊)の描き方でした。絵で描こうとすると、どうしても生身の御息所と物の怪になっている御息所を描き分けなければなりません。かつて江戸の絵入版本では、御息所の髪の毛を逆立てることによって、視覚的に物の怪状態であることを読者に訴えました。これもうまいアイデアですね。

別の現代マンガでは、御息所の目を白目にすることで、通常とは違うことをわからせようとしていました。では大和和紀はというと、そういった小細工ではなく、着ている衣装に蜘蛛の巣の文様を描くことで、いとも簡単に物の怪であることを示すことに成功しているのです。ただしこのアイデアは、必ずしも大和和紀の独創ではなく、日本画家上村松園の「焔(ほのお)」という絵からヒントを得ているようです。

松園の絵も、六条御息所というか謡曲「葵の上」をモデルにして描かれたものでした。見返り気味の女性が自分の髪の毛を口で噛んでおり、嫉妬に狂った女性の姿が恐いほど見事に描かれています。加えてその女性の衣装には、清楚な藤の花に蜘蛛の巣が絡んでいるではありませんか。大和和紀はこの蜘蛛の巣を参考にしたに違いないと思います。

ついでながら大和和紀は、その蜘蛛の巣の効果を、もう1度だけ別の場面で活用しています。女三の宮と密通した柏木を前に、痛烈な嫌みをいい、酒を無理強いしている光源氏の衣装に、なんと蜘蛛の巣の文様が描かれているのです(もちろん原文にはありません)。この時、光源氏は物の怪ではないものの、尋常な精神状態ではなかったことを、蜘蛛の巣によって示したのでしょう。これこそ大和和紀の独創と言えます。そういった細心の心配りを、『あさきゆめみし』の読者はどれだけ読み取れているのでしょうか。

話はここで終わりません。その『あさきゆめみし』が、宝塚歌劇団で上演(リメイク)されたからです。宝塚に何の興味もなかった私ですが、こと源氏物語となれば俄然興味が湧き、11年前に観劇に行きました。お目当ての御息所の物の怪出現場面はというと、突然役者が後ろ向きになり、両手を水平に伸ばしたのです。するとその緑色の衣装には、銀色で蜘蛛の巣が大きく描かれているではありませんか。私はそれを見て大喜びし、思わずやったと叫びたくなりました。残念なことに周囲の人たちは冷静で、ほとんど何の反応も示していませんでしたが。

少なくとも宝塚の脚本家は、『あさきゆめみし』の蜘蛛の巣文様の意図を見抜いて、それを舞台効果に使っていたのです。この蜘蛛の巣の衣装だけで、私の中で宝塚のすべてがプラス評価に変わってしまいました。宝塚もなかなかやるな!

 

※所属・役職は掲載時のものです。