百人一首は秀歌撰ではない?

2013/03/21

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

タイトルを御覧になって、首をかしげる人も少なくないでしょう。そして直ちに、「百人一首は秀歌撰に決まっている。それも大歌人・藤原定家が編纂した最高の秀歌撰だ。なんてとんちんかんなことを言っているんだ。」とお叱りを受けそうです。ですが、はたしてそう言い切れるでしょうか。百人一首は本当に秀歌撰の定義にあてはまるのでしょうか。

私が今さらこんなことを問題にするのは、百人一首を安易に秀歌撰としてまつりあげてしまった結果、知名度が高い割に研究が停滞・遅延してしまっているからです。せっかくの百人一首の面白さが、秀歌撰という安易な定義によって、かえって見えなくなってしまっているのではないでしょうか。そこであえて挑戦的なタイトルを設定してみた次第です。

1度秀歌撰という枠をはずして、あらためて百人一首を見直してみると、いわゆる秀歌撰とは異なる点が多々あることに気付きます。例えば百人一首はほぼ年代順に配列されていますが、従来の秀歌撰はすべて歌合形式になっており、左右の組み合わせが重視されています。藤原公任(きんとう)撰の『三十六人撰』(いわゆる「三十六歌仙」)では、1番左に柿本人麿、2番右に紀貫之という好取組になっています。さらに後鳥羽院撰の『時代不同歌合』は1番左に人麿・2番右に源経信(つねのぶ)になっていますが、これは新旧歌人の歌合(対)を意図してのことでしょう。

もっと奇妙なことがあります。本来、秀歌撰の1番は人麿が定位置でした。それは『古今集』において人麿を「歌聖」と認定していることに起因します。それにもかかわらず、百人一首では人麿を3番にずらし、巻頭に天智・持統という親子天皇を据えているのですから、これだけでも単なる秀歌撰とは大きく異なっていることになります。しかも百人一首では、巻末にも後鳥羽・順徳という親子天皇を配しており、巻頭と巻末が親子天皇でシンメトリーになっているのです。

そもそも秀歌撰の代表・嚆矢(こうし)たる『三十六人撰』に、天皇の歌は一首も撰ばれていません。『時代不同歌合』に至って、5人の天皇が撰入されています。それは撰者である後鳥羽院自身を歌人として撰入させるための方便でしょうし、また意図的に天皇歌人の存在を強調するためと思われます。それでも『時代不同歌合』では、巻頭・巻末に天皇が配されることはありませんでした。百人一首に至って、天皇が5人から8人に増加したのみならず、親子天皇をもって巻頭・巻末を飾っているのですから、それこそ一般的な秀歌撰の編纂意識とは大きく異なっているわけです。

歌人ならざる天皇の歌を無理に撰ぶために、もう1つの作為も行われています。従来の秀歌撰は一歌人三首が原則でした。それに対して百人一首は一人一首となっています。つまり歌が一首しかなくても、撰ぶことができるのです。持統天皇・阿倍仲麿・喜撰法師・陽成院のように、この方針で拾われた歌人も少なくありません。気付いていない人も多いようですが、百人一首はこういった特殊な編纂方針のもとに成立しているのです。これでもまだ百人一首を秀歌撰であると言い張ることができますか。

 

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