新島八重は二つの語り部

2013/02/28

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

新島八重は、最愛の夫・襄が明治23年1月に亡くなった後、健康には人一倍自信があったものの、さすがに心労で体調を崩しています。そのことは『女学雑誌』(明治23年7月)に掲載されている「新島襄先生未亡人を訪(と)ふ」に、「令婦人曰(いわ)く、永く神経を疲労し、医命により出来る丈世事を棄つる様にし、閑散ならんことを期す。」と記されていることからわかります。八重にとって、いかに襄の存在が大きかったか、その襄の死がいかにショックだったかが察せられますね。

その3ヶ月後、再度八重への取材が行われました。同じく『女学雑誌』(同10月)に掲載された「新島襄先生未亡人の談話」がそれです。ここで八重は、短いながらも襄の幼少の頃の話を語っています。しかしそれは決して八重の見聞したものではなく、おそらくは生前に襄から話してもらったことでしょう。この時点で、八重は襄の語り部になっていたと言えます。

それから20年後、『婦人世界』(明治44年1月)に「家庭人としての新島襄先生の平生」が掲載されています。ここでは同志社を創設した新島襄の懐古談が要請されており、八重はそれに応えて見事に襄を語っているのです。また大正6年12月には、「新島先生逸話」と題した取材が行われています。ただしこの聞き取り原稿が日の目を見るのは、それから約40年も経過した『新島研究』誌上でした。さらに昭和3年の「同志社新聞」には、「新島未亡人回想録」が連載されています。これも昭和48年に、『新島八重子回想録』(同志社大学出版部)という書名で日の目を見ています(最近同志社エンタープライズより覆刻)。

それ以外にも、毎年襄の命日に行われる記念会で、八重はニーズに応じてしばしば襄の懐古談を披露し続けています。襄の妻であった八重には、自ずから襄の語り部という役割が要請されていたのです。そういった語りを通して、八重自身は次第に襄と一体化していきました。そのため結婚前の襄のエピソードについても、聞き書きではなく体験談のごとくに語ることができたのです。

それと同時に、八重はもう一つの語り部としても活躍しています。それは会津戦争(戊辰戦争)の貴重な生き残りとして、鶴ヶ城籠城の体験談(会津の正義)を語ることでした。これには明治38年に設立された京都会津会の存在も大きいと思われます。主要なものとしては、『婦人世界』(明治42年11月)に掲載されている「男装して会津城に入りたる当時の苦心」を皮切りに、「新島八重子刀自(とじ)の談片」(『会津戊辰戦争』丸八商店出版部・昭和3年12月第4版)や「新島八重子刀自懐古談」(昭和7年5月)などが活字として残されています。

それ以外にも、例えば当時学生だった山室軍平(救世軍)に懐古談を語ったり(『追悼集Ⅴ』)、また会津出身で京都大学医学部の学生だった天野謙吉に、籠城談を語って聞かせたことが知られています(『会津史談』昭和53年5月)。また明治42年には山陽高等女学校で、昭和3年には会津高等女学校の生徒達と日本女子大学で、さらに昭和5年には会津高等女学校で籠城談を語っています。八重の戦争体験は、老後にフラッシュバックして、時間を超えて鮮やかに蘇(よみがえ)っているとも言えます。もちろん戊辰戦争から60年後の昭和3年、松平容保(かたもり)公の孫勢津子姫と秩父宮殿下との御成婚によって、ようやく会津復権(朝敵の汚名返上)がかなったこともそれに拍車をかけたことでしょう。

こうして記憶力のすぐれた八重は、ある時は新島襄未亡人、またある時は山本八重として、全く異なる二つの語り部となり、臨場感あふれる語りをしばしば提供したのでした。

 

※所属・役職は掲載時のものです。