「鵺(ぬえ)」のような女

2013/02/28

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

来年のNHK大河ドラマの主人公・新島八重のことを考える上で、当時学生だった若き徳富蘇峰の辛辣(しんらつ)な悪口を無視することはできそうもありません。有名な「鵺(ぬえ)」という八重のあだ名は、この蘇峰が進上したものでした。

新島襄先生夫人の風采が、日本ともつかず、西洋ともつかず、いはゆる鵺(ぬえ)のごとき形をなしてをり、かつ我々が敬愛してゐる先生に対して、我々の眼前に於て、余りになれなれしきことをして、これも亦癪(しゃく)にさはった。

(『蘇峰自伝』)

こういった蘇峰の八重攻撃は、単に九州男児的な男尊女卑の考えというだけでなく、蘇峰の新島襄敬愛の裏返し(反動)とも分析できそうです。敬愛してやまない襄に対する妻八重の不遜(ふそん)な接し方が癪に障ったのです。また八重の服装の奇異さについては、最初に出会った時から蘇峰の目に焼き付いていました。

祈祷(きとう)会で予の記憶に残るものは、日本部屋の中に小さきストーブを据えてあつたこと、その集会の中に、日本服に靴を履(は)き、西洋夫人の帽子を冠りたる、肥胖(ひはん)なる婦人のあつたことである。この婦人が予と少からざる交渉を惹起(じゃっき)したる、新島先生夫人であることは、後から判(わか)つた。

 (『我が交遊録』)

「少からざる交渉」が何を意味しているのかわかりませんが、「肥胖(ひはん)なる婦人」という形容を含め、二人の間には最初の出会いからして因縁めいたものがあったようです。しかし敬愛する新島襄が亡くなった時、蘇峰は八重に対して積極的にわびを入れ、和解を申し入れています。蘇峰もたいした男でした。

予は先生の逝(ゆ)かるるや、先生の夫人に向つて斯(か)く云つた。「私は同志社以来、貴女(あなた)に対しては寔(まこと)に済まなかった。併(しか)し新島先生が既に逝かれたからには、今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、貴女もその心持を以て、私に交(つきあ)つて下さい。」斯くて爾来(じらい)予と新島夫人とは、同夫人が米寿に達して、天寿を終はる迄、その言葉通りの交際をした。

 (『我が交遊録』)

蘇峰においては、襄あっての八重批判だったのです。その襄が亡くなった今、八重は唯一の襄の形見となりました。ですから蘇峰は、以後八重を襄だと思って、終生(42年間)息子のように八重に仕えたのです。八重も次第に蘇峰を頼るようになり、何かと相談しています。そして最終的に蘇峰は八重のことを、

新島夫人の美点を挙ぐれば、第一健康であったことである。新島襄その人は、帰朝以後は半病人であったが、夫人は病気と云ふことは殆(ほとん)ど誰も聞かない程の健康者であった。第二には、性格が陽気で、頗(すこぶ)る快活であった。第三は公共の為に働いた。

 (『三代人物史』)

と分析・評価しています。蘇峰は、健康と陽気な性格と公共奉仕の3つを八重の美点としていますが、これは十分納得できる答えです。さらに蘇峰は、「彼等に取って一つの不幸は、子供の無きことであった」(同)と残念がっています。また八重を「日本女性の誇りとするに足る一人であった」と評価しています。最初に悪口を言った蘇峰こそは、最終的にもっともよき八重の理解者となっていたことを忘れてはなりません。

 

※所属・役職は掲載時のものです。