明治8年夏の八重

2013/02/05

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

八重の人生を考える上で、いくつかの節目がありそうです。八重が襄と出会う明治8年も大きな節目の1つだと思われます。

国禁を犯してアメリカへ渡っていた襄は、明治7年に晴れて帰国しました。その翌年、つまり明治8年に関西にやってきたのです。ちょうど京都では、第4回京都博覧会が開催されており、その期間中は外国人の出入りが自由ということで、宣教師のゴードンが京都に滞在していました。そのゴードンを追って、襄も京都にやってきます。

必然的に八重が襄と初めて出会うのは、そのゴードンの家でした。ゴードンは八重の兄山本覚馬と知り合っており、おそらくその縁で八重はゴードンから聖書のマタイ伝を英語で教わっていたのでしょう。いつものように八重がゴードン宅へ行くと、玄関で靴を磨いている男性がいました。八重はその男を下男(ボーイ)と思い、挨拶もしないで中に入ったそうです。後であらためてゴードン夫人から新島襄を紹介されました。なんとそれは靴を磨いていたその人だったのです。ちょっと変わった出会いですね。

その後、京都に学校を設立するために、襄はしばしば京都を訪れ、ついには山本覚馬の家に寄留することになりました。当時、八重は女紅場の権舎長つまり寮母のような仕事をしていたので、学校に住み込んでいたようです。ある夏の日、襄が山本家に戻ると、中庭の井戸の上に板を渡し、その板に座って涼しそうに針仕事をしている八重さんを見かけました。驚いた襄は早速兄の覚馬に、妹さんは危ないことをしているので注意して下さいと告げたところ、覚馬は、妹は大胆なことをしてしょうがないと答えたそうです(『新島八重回想録』)。

そのことがあって以来、襄は八重のことを意識するようになったというのですから、男女の仲というのは不思議ですね。実は最近、面白い資料を見つけました。京都府立資料館所蔵の女紅場の文書ですが、そこに八重の「休暇願」の書類がありました。

 

  •      御暇願
  • 無拠用向有之下坂仕度候間来月四日ヨリ女紅場休業中間三十一日迄御暇被下度此段奉願候以上           女紅場権舎長
  •   明治八年七月           山本八重

 

拠(よ)ん所ない用事があるので、8月4日から31日まで女紅場を休ませてほしいというのです。8月のまるまる1ヶ月近く、一体八重はどこで何をしていたのでしょうか。

それがなかなかわからなかったのですが、本井康博先生の新刊 『八重さん、お乗りになりますか』 を読んでいたところ、あっと驚くような記述に目が釘付けになりました。それはデイヴィスがクラークに宛てた英文書簡の中の記事です。

この夏、彼女は神戸に送られます。かの地の宣教師たちの家庭を訪ね、夏中、一緒に寝泊りして暮らします。<中略>要するに、神戸は八重の花嫁修業に最適でした。八重は、未来の牧師・宣教師夫人になるために、不可欠なスキルを身につけたり、こころ構えを備えたりする必要があったはずです。英語はもとより、聖書やキリスト教の勉強、それに西洋料理や洋裁、はてはオルガンも習ったでしょうね。   (14頁)

ここに「この夏、彼女は神戸に送られます。かの地の宣教師たちの家庭を訪ね、夏中、一緒に寝泊まりして暮らします」とあるではありませんか。早速英文を確認したところ、神戸だけでなく大阪へも出向いていることがわかりました。これで休暇願の「下坂」(大阪へ下る)とも一致します。

本井先生はこの記述から、この時八重は牧師夫人になるための花嫁修業をしたと解説しておられます。そこまで言い切れるかどうかわかりませんが、少なくとも八重の信仰を確認する(クリスチャンになる)ための合宿だったことは確かでしょう。

なお、襄がアメリカのハーディに八重との婚約を告げた11月23日付け書簡の中に、

私は彼女が洗礼を受けて教会に迎え入れられるまで待とうと思っていたのですが、その後、彼女の回心が明白である確証を得ましたので、全くためらうことなく婚約しました。

とあります。「彼女の回心が明白である確証を得ました」とあるのは、この夏の彼女の合宿のことを指しているのではないでしょうか。これまで2人の結婚に関しては、襄の方が一方的かつ積極的だったとされてきましたが、この1ヶ月の合宿という事実を勘案すると、八重の方も連動して行動していたことになりそうです。

こういった行動によって、八重は11月18日に女紅場を辞めさせられます。その辞令には、

 

 

  •         山本八重
  • 女紅場権舎長并機織教導試補差免候事
  •    明治八年十一月十八日

と記されていました。非常に簡素な書類ですね。デイヴィスの書簡には、「理由を告げることなく」とあります。また襄の手紙には、「彼女が学校でキリスト教を教えるようなことがあれば、すべての生徒が学校をやめるだろうと懸念したからです」と説明されています。どうやら辞めさせられたのは、10月15日に襄と婚約したからというだけではなく、八重が女紅場でキリスト教の布教めいたことを行ったからということになりそうです。

さて、大河ドラマ「八重の桜」が二人の馴れ初めをどのように描くのかわかりませんが、明治8年の夏の合宿は、八重の人生において看過できない重要なできごとだったのです。それがようやく資料的に明らかになったので、ここに紹介させていただきました。

 

※所属・役職は掲載時のものです。