日本女子大学での講話─昭和3年の八重─

2013/02/05

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

八重にとっての昭和3年は、彼女の人生を考える上で看過できない年でした。その年最大のできごとは、9月28日に行われた勢津子姫(松平容保公の孫)と秩父宮殿下との御成婚です。これによって会津藩は60年ぶりに朝敵・逆賊の汚名を晴らすことができたのですから、八重のみならず、旧会津藩の人々がずっと待ち望んでいた慶事だったと言えます。

八重はその祝賀会に出席するため、84歳の高齢であるにもかかわらず、列車の2等席で上京しています。それに合わせて、平石弁蔵著『会津戊辰戦争』の増補改訂4刷が企画され、「戦後の断片」に掲載すべく懐古談の聞き取り調査が行われました。その説明書きの末尾に八重のことが、

上京後席暖かなる能(あた)はず明日は女子大学に出講の予定なりと、(483頁)

と記されています。ここに出ている「女子大学」は、日本女子大学のことです。最近までそれ以上のことはわからなかったのですが、本井康博先生の新刊 『八重さん、お乗りになりますか』 の中で新資料が紹介されました。日本女子大学の「家庭週報」965 に八重訪問の記事が掲載されていることがわかったことで、来校日が10月5日であったことが確定したのです。

そうなると、自動的に聞き取りは前日の4日だったことになります。9月28日の御成婚から一週間が経過しているわけで、八重はかなり長逗留していたことまでわかりました。さすがに本井先生は、八重が広津友信・初子(八重の養女)夫妻のところに滞在していたことまで突き止めておられます。

ところで八重は、何故わざわざ日本女子大学を訪問したのでしょうか。それについて「家庭週報」の書き出しには、

十月五日、母校に於ては眞に思ひ設けなかつたところの客人をお迎へしたのであつた。それは麻生校長を初め塘(つつみ)幹事、松本、服部両教授等の教への父として敬慕さるる同志社総長故新島襄先生の未亡人八重子刀自の来訪であった。

と記されています。先の「戦後の断片」には「出講の予定」とありましたが、こちらには「思ひ設けなかつたところの客人」とあるので、日本女子大学側からの要請ではなかったことになります。

続いて「今はなき人の培(つちか)ひによつて結ばれた教へ子の実のりを尋ねられた」と訪問の意図が述べられています。「今はなき人」とは、もちろん夫新島襄のことです。襄の教え子達が日本女子大学で教鞭を取っているのですから、同志社と日本女子大学は、長い歴史と教育理念を共有しているわけです。

四方山話は尽きず、昼食・記念撮影の後、同志社出身の麻生校長から八重に、学生に何かお話をとの急な依頼が飛び込みました。八重は「いやいや、もう私は脳がなくなつてゐるのですから」と辞退していたものの、講堂に集まっていた1年生に対して堂々と講話を行っています。幸い話の内容についても「家庭週報」に掲載されており、それを見るとここでも『日新館童子訓』の序文を長々と暗誦していました。これは八重の十八番だったようです。

それを受けて、八重は外面ではなく内面を飾ってほしいということを訴え、

髪容は鏡に向つて直すことは出来ても、心の歪みは直らないのであります。それは聖書聖人の心に照した時に初めて直されることであると信じて居ります。如何に顔を美しくしても、洗へば落ちて元のままとなるではありませんか。決して幾度洗つても洗つても落ちないものは美徳であります。何卒この世の先駆者である若い皆様方は、美徳を以て鏡としなさることを、心からお願ひ致します。

と、なんと「美徳」の話までしていたのです。これには驚きました。ちょうど1ヶ月ほど前、八重は「美徳以為飾」と書いて、会津高等女学校に送っていたからです。時期的に考えると、八重の脳裏にまだ「美徳」という言葉が焼き付いていたのでしょう。この言葉は『新約聖書』ペテロの手紙1・3章3節4節の、

あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた内面的な人柄であるべきです。

を言い換えたものだと思われます。

今回、「家庭週報」の発見によって、八重が「美徳」のことを日本女子大学でも話していたことが明らかになりました。昭和3年の八重にとって、「美徳」はキーワードと言っていいかもしれません。なお「家庭週報」には「鏡としなさる」とありますが、これは「飾りとしなさる」の聞き間違いではないでしょうか。

 

※所属・役職は掲載時のものです。