日本女子大学での講話─昭和3年の八重─
吉海 直人(日本語日本文学科 教授)
八重にとっての昭和3年は、彼女の人生を考える上で看過できない年でした。その年最大のできごとは、9月28日に行われた勢津子姫(松平容保公の孫)と秩父宮殿下との御成婚です。これによって会津藩は60年ぶりに朝敵・逆賊の汚名を晴らすことができたのですから、八重のみならず、旧会津藩の人々がずっと待ち望んでいた慶事だったと言えます。
八重はその祝賀会に出席するため、84歳の高齢であるにもかかわらず、列車の2等席で上京しています。それに合わせて、平石弁蔵著『会津戊辰戦争』の増補改訂4刷が企画され、「戦後の断片」に掲載すべく懐古談の聞き取り調査が行われました。その説明書きの末尾に八重のことが、
と記されています。ここに出ている「女子大学」は、日本女子大学のことです。最近までそれ以上のことはわからなかったのですが、本井康博先生の新刊 『八重さん、お乗りになりますか』 の中で新資料が紹介されました。日本女子大学の「家庭週報」965 に八重訪問の記事が掲載されていることがわかったことで、来校日が10月5日であったことが確定したのです。
そうなると、自動的に聞き取りは前日の4日だったことになります。9月28日の御成婚から一週間が経過しているわけで、八重はかなり長逗留していたことまでわかりました。さすがに本井先生は、八重が広津友信・初子(八重の養女)夫妻のところに滞在していたことまで突き止めておられます。
ところで八重は、何故わざわざ日本女子大学を訪問したのでしょうか。それについて「家庭週報」の書き出しには、
と記されています。先の「戦後の断片」には「出講の予定」とありましたが、こちらには「思ひ設けなかつたところの客人」とあるので、日本女子大学側からの要請ではなかったことになります。
続いて「今はなき人の培(つちか)ひによつて結ばれた教へ子の実のりを尋ねられた」と訪問の意図が述べられています。「今はなき人」とは、もちろん夫新島襄のことです。襄の教え子達が日本女子大学で教鞭を取っているのですから、同志社と日本女子大学は、長い歴史と教育理念を共有しているわけです。
四方山話は尽きず、昼食・記念撮影の後、同志社出身の麻生校長から八重に、学生に何かお話をとの急な依頼が飛び込みました。八重は「いやいや、もう私は脳がなくなつてゐるのですから」と辞退していたものの、講堂に集まっていた1年生に対して堂々と講話を行っています。幸い話の内容についても「家庭週報」に掲載されており、それを見るとここでも『日新館童子訓』の序文を長々と暗誦していました。これは八重の十八番だったようです。
それを受けて、八重は外面ではなく内面を飾ってほしいということを訴え、
と、なんと「美徳」の話までしていたのです。これには驚きました。ちょうど1ヶ月ほど前、八重は「美徳以為飾」と書いて、会津高等女学校に送っていたからです。時期的に考えると、八重の脳裏にまだ「美徳」という言葉が焼き付いていたのでしょう。この言葉は『新約聖書』ペテロの手紙1・3章3節4節の、
を言い換えたものだと思われます。
今回、「家庭週報」の発見によって、八重が「美徳」のことを日本女子大学でも話していたことが明らかになりました。昭和3年の八重にとって、「美徳」はキーワードと言っていいかもしれません。なお「家庭週報」には「鏡としなさる」とありますが、これは「飾りとしなさる」の聞き間違いではないでしょうか。
※所属・役職は掲載時のものです。