襄と八重が新婚の日々を暮らした家

2012/06/14

大島 中正(日本語日本文学科 教授)

 

1871(明治4年)11月、兄の山本覚馬を頼って、母の佐久、姪のみねとともに、京都にやってきた八重は、やがてアメリカン・ボード準宣教師の新島襄に出会い、1876(明治9年)1月2日に、同ボード宣教師であるJ.D.デイヴィスから洗礼を受け、翌日の3日にデイヴィスの邸で結婚式を挙げました。千年の都で最初のプロテスタントとしての受洗であり、日本人として最初のキリスト教(プロテスタント)の結婚式でした。

襄と八重が新婚時代を過ごした家は、京都市上京区新烏丸頭町40番地で、現在の府立鴨沂(おうき)高校の東南角にありました。岩崎元勇という御所に勤務する人の邸を借りて住んでいたのです。この邸について、八重は次のように回想しています。

私の住居は実に小さな家で八畳に六畳の二間に玄関は暗い室でございまして、襄の書斎が二畳敷、それに食堂が四畳半、庭先も一坪位でした。(『同志社女学校期報』39号【1916(大正5)年12月10日】。引用にあたり表記を一部改めた)

この住まいは、襄と八重の私邸ではありますが、同志社の歴史においても、忘れるわけにはいかない重要なスポットなのです。

 

1875(明治8)年11月29日、官許同志社英学校が産声をあげました。教師はアメリカン・ボード派遣の宣教師である二人、つまりデイヴィスと新島襄でした。生徒は男子生徒8名でした。仮校舎は、この頭町の私邸の近く(奇しくも後の新島邸が建つところ、現在の新島旧邸)にあったのですが、開校の祈祷会は、この私邸で行われました。なぜならば、京都府から学校内では聖書を教えないという条件つきで開校が許可されていたからです。祈祷会も当然、校内では行えなかったのです。デイヴィスによる新島伝『新島襄の生涯』には、「今朝八時、新島の家で祈祷会をもってわれわれの学校を始めた。(略)あの朝、開校に先立って新島が自宅で捧げたあのやさしい、涙にみちた、まじめな祈りを私は忘れることができない。すべての者が心から祈った」と記されています。

 

八重は、翌1876(明治9)年の2月、デイヴィスと相談して、いつ開校式があったということもなく、デイヴィスの妻の姉にあたるミセス・ドーンとともに女子のための私塾を始めたと回想しています。生徒は3人で、その中に9歳になる男の子もいましたが、その子はやめ、女生徒の姉の方は病気で亡くなり、妹もやめてしまったために、この私塾は、自然消滅となってしまいました。八重はそこでABCを教えたと言っていますが、八重の英語力についてはよくわかりません。英語の初歩を教えたということでしょうか。八重の回想によると、襄は、八重と共に祈るときは日本語で祈り、一人で祈るときは英語であったということですが、おそらく、この女子塾のためにも、二人で祈りをささげたことでしょう。

短命に終わった私塾でしたが、八重のこの働きは、ウーマンズ・ボード(※1)の機関誌『女性のための生命と光』に掲載されることになりました。

同機関誌は

「すでに京都で女学校は始まっているといえます。それはアメリカン・ボードの宣教師ドーン夫人と新島夫人が責任をもっている学校です」(※2)

(Vol.Ⅵ No.5, 1876.5  p.138L-8参照)

と記しています。

このニュースによって、ウーマンズ・ボードのアメリカ独立百周年記念募金の内の6000ドルが、同志社女学校最初の校舎のためにと寄付されることになるのです。

同年12月3日、同じ家で京都第二公会(現在の同志社教会の起源)が設立しました。この日、襄から、母の佐久、姪のみね、それに徳富猪一郎(蘇峰)らが受洗しました。

襄と八重が結婚直後の2年と8か月の日々を暮らした借家は、同志社誕生の祈りがささげられた所でもあり、八重が宣教師夫人の力を借りて私塾をはじめた所でもあり、さらに同志社教会誕生の地でもあったのです。

1878年(明治11)年9月7日、二人は、京都市上京区第22区松蔭町18番地の新居(現在の新島旧邸)に転居しました。

※1)アメリカンボードと同系の女性宣教師派遣団体。
※2)原文は"Life and Light for Women" Vol.Ⅵ No.5 1876 .5 p.138 L-8。この日本語訳は、坂本清音編著『女性宣教師「校長」時代の同志社女学校(1876年―1893年)上巻』(同志社女子大学史料室叢書Ⅱ、2010年)pp.10-11による。

 

※所属・役職は掲載時のものです。