会津の板かるた
吉海 直人(日本語日本文学科 教授)
私が八重のことに興味をもった理由の一つは、八重が百人一首かるたの名手だとわかったからです。それも詳しく調べていくうちに、なんだか普通のかるた取りと違うことに気付きました。例えば八重の遊んでいるかるたが、一般的な紙札ではなく、板製であったことがあげられます。もちろん古くから板かるたは存在しましたが、それで庶民が遊んだという記録は見当たりません。
もう一つは、八重が読み手になって読みあげたのが、上の句ではなく下の句だったことです。普通のかるた取りでは、読み手が上の句を読んで、取り手が下の句札を取ります。ところが八重は上の句を読まず、いきなり下の句から読んでいるようなのです。
この二つの情報から、八重の遊んだかるたの正体がわかりますか。これまで多くの人はわからなかったようです。幸い私は、百人一首の研究を専門にしているものですから、すぐにピンときました。あ、これは下の句かるた取りだと。残念なことに現在の会津若松では、すでに板かるたの記憶が消失しているようで、若い人はほとんど見たことも遊んだこともないようです。
幸いなことに、北海道にそれが残っており、今でも板かるたを購入することができます。従来は会津で発祥した板かるたが、戊辰戦争以降に斗南藩(現在の青森県と岩手県の一部)経由で北海道に伝わったと言われてきました。しかしながら古く会津で遊ばれていたという記録が報告されておらず、一種の伝承として片づけられていたようです。それが奇しくも八重研究の副産物として、会津の板かるたが浮上してきたのです。
まず『会津会報誌』32号【1928(昭和3)年7月】の「京都会津会第2回例会兼新年互礼会」に、
と出ていました。ここに「板歌留多」と明記されているのです。
続いて1年後の『会津会報誌』34号【1929(昭和4)年7月】の「新年互礼会」にも、
と記されていました。ここでは「歌かるた」となっていますが、ちゃんと「会津独特の下の句を読みて下の句をとる」という競技法が明記されているではありませんか。同様のことは『会津会報誌』36号【1930(昭和5)年7月】の「新年例会」にも、
とありました。ここにも「お国ぶりを発揮して、下の句を読んで下の句を取る競技」と説明されています。
この日のかるた取りには、84歳の八重も参加していたようです。さすがに老齢には勝てず、往年の強さはなかったようです。この日は新城新蔵氏(昭和4年京大総長就任)一人が目立っていました。見つけたのはこの3点だけですが、これだけでもかつて会津で下の句を詠んで下の句をとる板かるたが盛んに行われていたことがわかります。
※所属・役職は掲載時のものです。