黒谷・西雲院にみる八重のおもかげ

2012/05/07

小山 薫 (英語英文学科 教授)

 

京都洛東に位置する「金戒光明寺」(通称「黒谷」)は、法然上人ゆかりの浄土宗大本山である。比叡山での修業を終えた上人が山を下り、紫の雲がたなびくのを見て、ここに庵を開いたという。同志社墓地のある若王子山と同様、東山三十六峰に含まれるこの高台(紫雲山)の寺院が、動乱の幕末に松平容保(かたもり)(京都守護職)率いる会津藩本陣となり、その縁で、黒谷墓地の一角に「会津藩殉難者墓地」(通称「会津墓地」)が置かれたことは、京都の歴史を語る上で欠かせないエピソードだと言えるだろう。

郷土愛あふれる八重が、同じ京都に住みながら、この地を訪れなかったはずがない。あれこれ資料を探す中、今年の3月、Web版「福島民報」(2012年3月22日)の掲載記事を見つけて、「やはり!」と深くうなずいた。「新島八重の慰霊祭出席の写真を保管」と題したその記事には、昭和3年11月17日に黒谷の塔頭西雲院で催された京都会津会による慰霊祭での集合写真が掲載されている。Web上の写真では顔を識別できなかったが、「前列左から3人目」に八重が「写っている」という。八重のおもかげを求めて、さっそく西雲院に出向いた次第である。ご住職(橋本周現氏)はご不在だったものの、当該写真の実物(ほぼA4サイズ)を奥様に見せていただき、晩年の八重の穏やかで上品なたたずまいに目を奪われた。同寺には、八重の書(二幅)も所蔵されているとのこと。丁度、法然上人800年大遠忌(3.11震災の影響で1年延期)が4月中旬に黒谷で催されており、多忙を極めておられたが、ご住職のご厚意で、4月下旬に「同志社女子大学新島八重研究会」メンバーと共にお訪ねする機会を得た。

黒谷墓地の入り口でタクシーを降り、昨年の大河ドラマ主人公・江の供養塔を左に見ながら、長い石段を上る。石段の先には文殊塔(重要文化財)がそびえているが、この塔が徳川第二代将軍・秀忠(江の夫)の供養のために建立され、彼が会津松平家の開祖・保科正之の実父であったことを思うと、会津藩と黒谷の密接な関係が再認識される。

西雲院では香がたかれ、新緑の庭に面した広いお座敷で、さまざまな貴重資料を拝見した。毎年6月にここで京都会津会による法要が営まれ、今年は107回目になるという。「明治三十八年八月起」と表書きされた発会時の「會津會々費簿」や、大正3年10月発行の「京都福島縣人會名簿」、さらに「昭和四年正月十五日 會員出席簿 附 会費徴収簿」にも、八重の名前が残されていた。

上述の二幅の書は、「明日の夜は何国の誰かながむらむ なれし御城に残す月かげ」と「いくとせかみねにかかれるむら雲の はれて嬉しき光りをぞ見る」である(※1)。どちらも「八十四歳」「八重子」と記され、それぞれ裏面には、短い解説に添えて「昭和三年」「拙筆 新島」の文字がある。前者は、会津城開城前夜に八重がかんざしで白壁に刻んだ和歌として巷間に伝えられており、後者は、昭和3年9月に、会津松平家出身の松平勢津子姫(容保の孫)が秩父宮妃となった喜びを歌ったものである。八重の和歌の内、初期と晩年を代表する二作であることは間違いない。

西雲院でコピーをいただいた「會津會雑誌」第34號(昭和4年7月発行)31-33頁によると、黒谷では同年10月7日に、妃殿下誕生を寿ぐ「光明寺奉告大法會」が催された。また翌月には、「御大禮」(昭和天皇の即位式)が京都で行われ、松平保男(もりお)(会津松平家第12代当主。勢津子妃の養父)、松平恒雄(勢津子妃の実父)、山川健次郎(東大、九州大、京大などで総長を歴任。生家は会津藩家老職)などを迎えて、11月17日に「臨時の法會」と「先輩諸名士歡迎會」が西雲院で開かれたという。冒頭に触れた集合写真が撮影された「慰霊祭」とは、この会のことであった。

同誌掲載の参加者リストで数えると、来賓18名、会員45名(計63名)だと分かるが、集合写真には、一人少ない62名が姿をとどめている。撮影場所は、会津墓地を入って左の慰霊碑前である。鳥羽伏見の戦いによる会津藩戦没者115名に捧げられた、この慰霊碑のほぼ中央には「山本三郎」と刻まれているが、その名前が示す通り、鳥羽伏見の戦いで深手を負い、21歳の若い生命(いのち)を散らした八重の弟・三郎がここに合祀されているのだ。この弟への八重の思いは、会津城籠城時に「三郎だといふ心持で、その形見の装束を着て」入城し、敗戦後も「山本三郎と稱し、男装して檢査を受け」たという、八重自身の言葉(※2)が雄弁に物語っている。60年の星霜を経て、彼女はこの日、晴れ晴れとした思いでこの席に連なっていたはずである。

先に触れた「會津會雑誌」第34號には、昭和4年に西雲院で催された「新年互禮會」の報告もある。1月15日開催だから、八重の参加記録が残っているものだ。少し長くなるが、その日のなごやかな雰囲気が伝わってくる個所(33頁)を引用しよう。

来會者約四十名納豆餅・露餅・黄粉餅・飴餅等は糯米を始め材料を會津より取寄せ、 膾・靑豆のひたし・打豆・數の子等の料理にて十二分に鄕土氣分を二百里を 隔つ京都の地で味ひ、會津獨特の下の句を讀みて下の句をとる歌かるた遊に歡を 盡して散會したのは電燈の點ずる時刻でありました。


同志社の学生を集めてのカルタ会では、「五六人の敵を一人にて引受け、連戦連勝であった程の名将」(同志社社史資料室 編『創設期の同志社――卒業生たちの回想録』205頁)と伝えられる八重だが、この日はどうであったろう。しかし結果はともあれ、八重のとびきりの笑顔が見えるようだ。西雲院での集まりは、彼女にとって里帰りのようなものだったと思われる。

境内にはハスの鉢がいくつも並んでいたが、その中に「会津古代蓮」と記されたものがあると気がついた。この寺と会津とは、こんな形でもつながっている。夏にはきれいなピンクの花が咲くそうだ。その頃にまた来たい――そう思いつつ西雲院を後にした。

 

※1)二幅の書の表記は、オリジナルの変体仮名をひらがなに変更した。

※2)八重の言葉については、前者を「婦人世界」(實業之日本社、1909年)第4巻13號掲載の、
    新島八重子「男装して會津城に入りたる當時の苦心」47頁、後者を平石瓣蔵『會津戊辰戦争
    増補――白虎隊娘子軍高齢者之健闘』(丸八商店出版部、1928年)492頁より引用。

 

※所属・役職は掲載時のものです。