八重の人生を歪めた〈美談〉

2012/04/18

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

阿部綾子氏の『つくられた「山本八重子」像と新島八重子』が、「繋ぐ思い第7回」(同志社大学ホームページ)に掲載されています。そこに熊田葦城著『少女美談』(実業之日本社、大正10年)という本が紹介されていたので、早速購入して「山本八重子戦死者を弔ふ」という短い話を読んでみました。

そもそも本書は、凡例に「本書は少年美談の姉妹篇にして、専ら16歳以下の少女の善行美事を収む」とあるように、少女に対する道徳教育のために善行の美談が編まれたものです。時代を問わず、2歳の部から順に16歳の部まで並べられており、それに続いて「年齢不詳の部」が収められています。

 

「山本八重子」の話は、その「年齢不詳の部」の後ろから2番目に位置していました。その内容というか結末が一般的な八重の伝記と大きく異なっているので、参考までに全文を紹介しておきます。

 山本八重子戦死者を弔ふ

 山本八重子は会津の人にして、父を権八と曰ふ。明治元年、会津籠城の際、叔母と與(とも)に城中に在り。大敵四方を圍(かこ)みて、城将(ま)さに陥(おちい)らんとす。叔母、
  「敵に乱せし状(さま)を見するは耻辱(ちじょく)ぞ。髪を結ひ直すべし」
と告げて、八重子の髪を梳(くしけ)づれる折柄、敵の銃丸、ビユツと耳元を掠(かす)めて過ぐ。八重子思はずハツと驚けば、叔母、
  「其許(そこ)は武士の子にあらずや。死は予(かね)ての覚悟なるに、銃丸(たま)に恐るゝとは何事ぞ」
と叱(しつ)す。八重子実(げ)にもと心付き、 
  「許し玉へ叔母上、我れながら不覚に候」
と述べて、深く我身の不覚を謝す。
落城の前夜、更闌(かうた)けて、人定まる。八重子独り城上(じゃうしゃう)の月を眺めて、感慨に堪えず。笄(こうがひ)を抜きて、城の白壁に、
 明日よりはいづくの誰か眺むらん 大城(おほき)にのぼる今日の月影
との和歌を刻む。亡国の恨、一首の中に溢(あふ)れて、綿々として尽きず。
城陥りて後、髪を削りて、尼となり、城市遠き一山寺(さんじ)に住みて、世の中の塵を避けつゝ、心閑かに戦死者の冥福を修す。

(229頁)


まず気丈夫な「叔母」の存在が目につきます。八重が母佐久と行動を共にしていることはわかっていますが、こんな叔母がいたことは知られていません。次に引用されている「明日の夜は」歌の下の句が、通常のものとは異なる本文になっています。あるいは「のこす」を「のぼる」と聞き間違えたのでしょうか。3つ目は八重が尼となって山寺に住んだという結末です。これが最も大きな相違点でしょう。

この話は阿部氏が示唆されているように、東海散士の『佳人之奇遇二』を踏まえていると思われます。そこで比較のために『佳人之奇遇二』を引用すると、

又一婦あり。月明に乗じ笄を以て国歌を城中の白壁に刻して曰く
 明日よりはいづくの人かながむらん なれし大城にのこる月影
と髪を薙(きっ)て死者の冥福を祈れり。

 


となっており、一見して「白壁」「笄」「髪」「死者」など、多くの語が共通していることがわかります。もしそうなら、『佳人之奇遇二』末尾の「髪を薙て死者の冥福を祈れり」を一時的なものとぜず、「髪を削りて、尼となり、城市遠き山寺に住みて、世の中の塵を避けつゝ、心閑かに戦死者の冥福を修す」と長期的(後半生)に解釈したことになります。

要するに八重が尼になったというのは、『少女美談』独自の解釈(誇張・曲解)なのです。当時、そういったあらまほしき風聞があったのか、それとも作者の脚色なのかは知るよしもありません。仮にこの本が多くの読者に読まれていたとすると、会津の山本八重で完結してしまうことになります。そうなると、戊辰戦争後に京都へ出て新島襄と結婚するという八重の人生はなくなってしまいます。

もちろん大正10年の時点で、八重は健在でした(75歳)。この話の作者は、京都に八重が住んでいたことを調べなかったのでしょうか。それとも美談に仕立てるためには、事実を曲げてもかまわないのでしょうか。あるいは会津の山本八重と、篤志看護婦として活躍していた新島八重が同一人物であることを知らなかったのかもしれません。

肝心の八重は、この記事を読んだのでしょうか。読んだとすれば、尼となって冥福を祈るという自分のもう1つの人生をどう思ったでしょうか。興味は尽きません。面白い逸話を発見・紹介して下さった阿部氏に感謝します。

 

※所属・役職は掲載時のものです。