間違いやすい日本語表現(2)

2021/01/14

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

日本語表現には、紛らわしいという以上に誤用の方が堂々とまかり通っている例も少なくありません。そのことは文化庁が行なっている「国語に関する世論調査」を見れば一目瞭然です。ここで例題を出してみます。みなさんは「怒り心頭に達する」と「怒り心頭に発する」はどちらが正解だと思いますか。

平成24年度の「国語に関する世論調査」では、「怒り心頭に達する」と答えた人が全体の67パーセントで、「怒り心頭に発する」と答えた人はわずかに24パーセント弱でした。これをみる限り、正解は「達する」で間違いないと思いますよね。これこそ誤用が正解を凌駕している典型的な例といえます。

まずは「心頭」の意味がお分かりでしょうか。「頭」とあるし、「頭に来た」という言い方もあることで、怒りが天辺(てっぺん)・頂天まで来たと思っている人はいませんか。でもこの「頭」は接尾辞で、「~のあたり」という意味です。わかりにくいようなら「心頭滅却すれば火もまた涼し」を思い浮かべてみてください。これは「心の中を無想にすればどんな苦痛も感じなくなる」という意味です。ですから「頭」とは何の関係もありません。

そもそも「達する」は怒りの帰着点を表わしているし、「発する」は始発点を表わしています。この場合は心底から怒る場合に用いる表現なので、どこかに到達する必要はありません。当然「発する」が正解なのですが、もはや「達する」を誤用とはできないところにまで来ています。既に「達する」を許容される慣用表現として辞書に掲載しているものもあります。

次の問題です。みなさんは「暇にあかして」と「暇にまかせて」はどちらが正しい言い方だと思いますが。これも「まかせて」の方だと答える人が圧倒的に多くなっているようです。同類の表現に「金にあかして」と「金にまかせて」もあります。どちらも本来は「あかして」が正解で、「まかせて」は誤用だったのですが、悪貨は良貨を駆逐するというか、誤用例が近代小説などに当たり前のように用いられたことで、いずれ逆転現象が生じかねません。「あかして」(隙を利用して)が能動的で「まかせて」(隙に依存して)が受動的としているものもありますが、何しろ誤用なので、どちらも同じ意味としているものも少なくありません。是非「あかして」と「まかせて」の意味・用法の違いをはっきり認識して下さい。

その他、紛らわしいというか、意味がわかりにくい言葉の一つに「人一倍」があげられます。みなさんは「人一倍頑張れ」といわれたら、どの程度頑張ればいいのかおわかりですか。「人一倍」だから人並みでいいんだという人もいるでしょう。いやいやこれは強調表現だから、できるだけ頑張ろうという人もいるでしょう。実は「一倍」というのは江戸時代以前の東洋数学用語で、今で言う「二倍」に相当します。ですから人の二倍も頑張らなければならないのです。「人一倍」は結構大変な頑張りだったのです。

もう一つ、「一人ぼっち」はいかがでしょうか。これはかつて坂本九が歌って大ヒットした「上を向いて歩こう」に出てきます。やっかいなことに、永六輔さんの作詞では「ひとりぽっち」と半濁音になっていました。そのため九ちゃんも「ぽっち」と半濁音で歌ったようです。それにもかかわらず、みなさんは「ぼっち」と濁音で歌っていませんか。これにはNHKが「ぼっち」をよしとした(奨励した)という歴史的背景が絡んでいるようです。

「一人ぼっち」の「ぼっち」は接尾辞で、「~だけ」などの意味を表わすともいわれています。では「これっぽっち」はどうでしょうか。こちらは「わずかな」「取るに足りない」というニュアンスが強いようです。ここからわずかなお金を入れる袋ということで、「ぽち袋」ができたともいわれています。

この語源は外国語由来にまで飛び火しています。フランス語の「petit」(小さい)あるいは英語の「spot」(点)がなまったという起源説があるからです。もともと「ぽっち」は小さな点・突起物ですから、当てはまりますね。また「ぽち」と「ぶち」が同類だとすると、それは小さな斑点を意味する言葉にもなります。だから花咲かじいさんの犬の「ぽち」や「ぶち」には斑点があるわけです。

ついでながら巨人伝説に登場する「だいだらぼっち」という名前には安易に「法師」が当てられていますが、決して坊主ではありません。日本語には正解がわからない語源もたくさんあるのです。探してみるのも楽しいですよ。

 

※所属・役職は掲載時のものです。