手に取るなやはり野に置け蓮華草(瓢水?)
吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)
みなさんは「やはり野に置け蓮華草」という表現を耳にしたことがありますか。「蓮華草」は野に咲いていてこそ美しいものなので、摘み取らない方がよいという意味です。そこから草木に限らず、人も本来あるべき環境に置くのがいいというたとえにも用いられています。
この表現がいつごろからいわれているのか調べてみたところ、江戸時代中期の滝野瓢水(1684年~1762年)という播磨の俳人が作った俳句だと説明されていました。例えば『続俳家奇人談』(天保三年刊)には瓢水作として、
平生したしき人の、難波の遊女を根引せんと云へるをいさめて
手に取るなやはり野に置け蓮華草
と出ています。しかも前書きを見ると、遊女を身請けしようとした友人をやめさせるためのものだったことがわかります。要するに「蓮華草」を遊女にたとえ、遊女は野にあるから(自分のものではないから)美しいのであって、それを家に連れてきてもその美しさは失われてしまうといって戒めているようです。
ところでこの句は、あまりにも有名になったために、いろいろな本文異同が発生しています。上五は「手に取らで」とか「取らずとも」というバリエーションがあります。中七など「捨てて野に置け」とか「やはり野に咲け」としているものがありました。一番異同が多いのが下五で、「蓮華草」が「すみれ草」になったり「月見草」になったりしています。美しい花ならなんでもいいので、他にも探せば異文が見つかるはずです。
ついでに「蓮華草」の意味ですが、「蓮華」は蓮の花のことですね。そのためこれを「蓮華」と解釈する人もいるようです。もちろん「蓮華草」は蓮の花に似ていることから名付けられたものです。ただし蓮の花は池の中に咲くものですから、野に咲くものではありません。これで区別できるはずです。
と、ここまで来たところで、作者に関する新しい研究があることがわかりました。それによると、『当世廓中掃除』(盧橘庵・文化四年刊)という版本の中に、
遊女を千金を積んで請出そふなどゝはいやはや大体の無分別、大坂の麦鱗が句に「摘まずともやはり野におけ砕米花 」とは誠に佳句なり。其里に置いてこそ全盛なり。
という一文が見つかったのです。「砕米草」は「げんげそう・れんげそう」と読みます。「其里」というのは「遊里」つまり「遊郭」のことです。
これを見ると、作者は大坂の麦鱗(外山翁、岡本蘭古の別号)となっています。文化四年は1807年で、天保三年は1832年ですから、『当世廓中掃除』の方が『続俳家奇人談』よりも25年も古いことになります。これを信じれば、先に麦麟によって、
摘まずともやはり野におけ砕米花
と作られたものが、25年後に瓢水によって、
手に取るなやはり野に置け蓮華草
と詠み替えられたことになります。
これは瓢水が盗作したというのではなく、単に麦麟の句を引用しただけなのかもしれません。ということで、最近の解説では瓢水の句だとするのは伝説で実作ではないとするものが増えています。これで済めばいいのですが、別の有力な資料もあげられていました。それは寛政十年(1798年)刊の『続近世奇人伝』に瓢水作として、
手に取るなやはり野に置け蓮華草
と出ていたからです。そうなると逆に瓢水の方が麦鱗より9年早いことになります。ということでこの件はまだ決着していないようなので、この句を引用する際には、くれぐれも注意してください。
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