東京大学植物学教室における「破門草事件」の顛末

2023/07/13

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

朝ドラ「らんまん」がだんだん面白くなってきましたね。特に東大植物学教室の田辺教授(矢田部良吉)と万太郎との決裂は、学歴のない万太郎にとって最大の危機ともいえます。これから万太郎はどうやって研究を続けるのかと危ぶんでいたところ、畳みかけるようにもう一つの事件が浮上してきました。それは田辺教授が発見した「トガクシソウ(戸隠草)」の命名にまつわるものです。

テレビでは、ロシアのマキシモヴィッチ博士に鑑定を依頼した標本の中で、万太郎の採取した「マルバマンネングサ」が新種と認められました。そのため学名は万太郎の名前が入った「セドゥム・マキノイ・マクシム」と命名されています。これは大変名誉なことです。また田辺教授が戸隠で採取した「トガクシソウ」もメギ科の新属と認められ、確認のために花の標本を送ってほしいということになりました。これが認められれば、田辺教授の名前が入った学名がつけられることになります。

ところが「トガクシソウ」は、実は田辺教授より先に伊藤孝光(伊藤篤太郎)の叔父が採取していたのです。それをマキシモヴィッチに送っており、既にメギ科ミヤオソウ属の一種と認定され、「ポドフィルム・ジャポニクル」という学名まで与えられていました。その事実があるにもかかわらず、田辺教授の送った標本によって、ミヤオソウ属ではなく新属と認定されようとしているのです。どうやらマキシモヴィッチが認定を誤ったようなのです。このままだと「ヤタベ・ジャポニカ・マクシム」という学名が正式のものとなり、伊藤篤太郎の功績は無に帰してしまいます。だからテレビでは、田辺教授のことを「泥棒教授」、マキシモヴィッチのことを「世界一の間抜け」と罵ったのです。

ところでこの伊藤孝光は万太郎と違い、学歴も家柄もありました。孝光の祖父伊藤圭介は、シーボルトから教えを受けた日本を代表する本草学者の一人です。その祖父から植物学の手ほどきを受けた孝光は、イギリスのケンブリッジ大学に留学した経験もあります。そのプライドが許さなかったのかもしれません。そこで孝光は田辺教授より先にイギリスの植物雑学誌に論文を提出し、自ら「トガクシソウ」に「ランザニア・ジャポニカ」という学名をつけました。

後手に回ったマキシモヴィッチは、「トガクシソウ」の公表を断念せざるをえなくなります。ということで、自分の名が学名につくことを期待していた田辺教授の夢は破れたのです。当然その怒りは孝光に向けられ、万太郎同様植物学教室への出入りを禁じられてしまいます。これが有名な「破門草事件」の顛末です。伊藤は「トガクシソウ」をめぐって破門されたので、「トガクシソウ」に「破門草」という別称が付けられたというわけです。これは本当にあった事件でした。

それはさておき、この一件によって伊藤篤太郎は、日本で初めて学名をつけた植物学者とされました。同時に「トガクシソウ」も、日本人によってはじめて学名をつけられた植物として日本の植物学史に名をとどめています。一方、矢田部教授は人間関係の不和が原因で、明治24年に東大を停職、27年には免官となり、東京高等師範学校の英語教授に転出しています。もちろん矢田部教授にしても、たとえばアジサイ科のキレンゲショウマの学名に「キレンゲショウマ・パルマータ・ヤタベ」と自分の名を留めています。ついでながら、矢田部良吉は外山正一・井上哲次郎とともに『新体詩抄初篇』を編んでおり、日本の近代詩人としても知られている人物です。

なお田辺教授のもとで万太郎を敵視していた徳永政市助教授(松村任三)・大窪昭三郎講師(大久保三郎、東京府知事大久保一翁の三男)でしたが、これ以後万太郎に好意的になります。ドイツに留学して帰国した松村は、田辺教授が辞めた後に教授となります。そしてなんと万太郎を東大助手として正式に採用したのです。出入りを禁止されて途方に暮れた万太郎でしたが、以後は堂々と研究に邁進できることになりました。また大窪講師は、万太郎が土佐で採取した新種の「ヤマトグサ」を共同で研究し、その成果を植物学雑誌に発表します。その学名には二人の名前が連名でつけられました(Theligonum japonica Okubo et Makino)。今後の展開が楽しみですね。

※所属・役職は掲載時のものです。