「水無月」と「梅雨」の混同
吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)
6月になったので「水無月」の由来について調べてみると、諸説が多い中でも大きく二つの説に分かれていることがわかりました。一つは漢字をそのままに理解して、日照りで水が無くなる月という説です。それに対してもう一つは、「無」を当て字として、本来は「の」という助詞とするもので、「水の月」、すなわち田んぼに水を張る月という説です。さてみなさんはどちらで覚えていますか。
水があるのかないのか、まったく正反対の意味ですから、どちらが正しくてどちらが間違っているのか気になってしまいますよね。こういう時には「みなづき」の初出例というか、古い例にあたってみるのが手っ取り早いようです。調べてみると、「水無月」の例は『うつほ物語』に出ていましたが、単に「六月」を「みなづき」と読んでいるだけなので、ここからではどちらの意味なのかはわかりませんでした。
そこであらためて「六月」で調べてみたところ、『万葉集』の次の歌がヒットしました。
六月のつちさへさけて照る日にもわが袖ひめや君に逢はずして(1995番)
これを見ると、「六月」は強い日照りによって水が不足し、土もひび割れると歌っています。ということは、「水無月」の意味でいいことになります。同様のことは『竹取物語』にも、
十一月、十二月の降り凍り、六月の照りはたたくにも、障らず来たり。(21頁)
とありました(「はたたく」は雷のことです)。その他、『文明本節用集』(室町中期成立)に、「ミナヅキ或作皆熱 水無月倭六月異名」とあり、「皆熱」を「みなづき」と読ませていました。最近の辞書でも、『日本大百科全書(ニッポニカ)』には、
この月は暑熱激しく、水泉が滴り尽きるので水無月というのだとする。
と説明されています。ほとんど日が照って熱い月と説明していますね。
では「水の月」の方はどうなのでしょうか。どうもこの説には、新旧の暦の混同がありそうです。というのも旧暦の「水無月」は、新暦では7月(真夏)になるからです。新暦の6月なら、「梅雨」のシーズンと一致するので水は豊富ですが、7月ともなると既に「梅雨」は過ぎた後なので、「水の月」はあてはまりそうもありません。
肝心の田植えにしても、むしろ旧暦5月の方がふさわしいですよね。たとえば「早乙女」は「五月女」と書きます。5月に田植えをする女性が「五月女」です。要するに五月の雨と書く「五月雨」が「梅雨」の別称だったのです。
付け加えれば、こういった季節の言葉は、原則貴族文化が反映されるものです。江戸時代ならともかく、貴族が田んぼに水を張ることをどれだけ気に掛けるでしょうか。というより平安京内に田んぼなどありません。そう考えると、「水の月」説は案外新しい考え方のように思えてなりません。いかがでしょうか。
ということで新暦の6月ならば、「水無月」と「梅雨」の時期が一致します。その「梅雨」は「黴雨(ばいう)」とも書きます。「黴」はカビのことです。「梅雨」の時期は高温多湿となりカビが生えやすいので、食中毒には十分注意しなければなりません。ちなみに「梅雨」には「つゆ」と「ばいう」という二つの読み方がありますね。その違いを尋ねると、たいてい「つゆ」は訓読みで「ばいう」は音読みという答えが返ってきます。
ですが「梅」は「つ」とは読みませんし、「雨」は「ゆ」とは読みませんよね。となるとこれは訓読みではなさそうです。「梅雨」を熟語として無理に「つゆ」と読んでいるだけです。それを熟字訓と称しています(「さみだれ」も同様です)。それに対して「梅」は「ばい」と読むし「雨」は「う」と読むので、「ばいう」は音読みで間違いありません。
もともと「梅雨」は中国から入ってきた気象用語でした。というのも「梅雨」は、中国の揚子江流域、朝鮮南部そして日本に共通する特有の気候だからです。当然「ばいう」の方が古くて正しい言い方だったことになります。ちなみに北海道に「梅雨」はないとされており、そのため梅雨入り・梅雨明けの報道もありません。ただし近年の異常気象によって、北海道にも「梅雨」や台風が訪れるようになりつつありますね。
一方の「つゆ」は、室町時代以降にしか用例が見当たりません。また「ばいう」からは「梅(の実)」が想像されます。要するに「梅雨」には、「梅の実が熟する頃」という意味も含まれているのです。ところが「つゆ」という音から、「梅」を想起することはできそうもありません。むしろ「露」が思い浮かびます。「つゆ」は「梅」からは離れた日本独自の言葉ということになりそうです。
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