「山路きて何やらゆかしすみれ草(ぐさ)」(芭蕉)

2023/02/01

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

貞享元年(1684年)八月、芭蕉は関西に向けて出立しました。翌年の二月(旅の終盤)、京都から伏見を経て大津へ向かう小関越えの途中、ふと路傍にすみれが咲いているのを見かけた芭蕉は、

山路きて何やらゆかしすみれ草

という句を作っています。一見すると何の変哲もない平凡な句に見えませんか。

この句の季語は「すみれ草」です。これにしても日本全国に自生している草ですから、珍しいものではありません。むしろ地味な小さな花といえます。さほど自己主張もせず、ひっそりと咲いている感じです。ひょっとしたら見過ごしてしまうかもしれません。ポイントは、中七の「何やらゆかし」です。山路を辿っていて、ふとすみれが咲いているのが目にとまりました。それが何故かわからないものの、「ゆかし」という気持ちを湧き立たせたのでしょう。「ゆかし」というのは、心惹かれる・なつかしいといった心情です。

実はこの句には二つの大きな問題が存しています。お気づきですか。一つは『野ざらし紀行』に「大津に出づる道、山路を越えて」という詞書があることで、その時に作られた句であると思われていることです。ところがその年の三月二十七日、熱田の白鳥山法持寺で開催された連句の会で芭蕉は、

何とはなしになにやら床し菫草

という似た句を詠んでいたのです。これが二月以前の作であれば、この句を推敲して「山路きて」ができたといえそうです。その逆は考えにくいですね。そうなると、二月の大津行きの折に、この句はまだ詠まれてなどいなかったのかもしれません。むしろ後からこの句にふさわしいところに補入されたのではないでしょうか。

もう一つは、「すみれ」と「山」の取り合わせです。というのも、この句について北村季吟の子・湖春が、

湖春曰く、「菫は山によまず。芭蕉翁、俳諧に巧みなりといへども、歌学なきの過ちなり」(『去来抄』)                           

と強烈に批判しているからです。古典の知識が豊富な湖春は、『万葉集』の赤人歌、

春の野に菫摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける(1424番)

以下、すみれが野の花として詠まれていることを知っていたに違いありません。だからこそ「山路」に咲いていると詠まれていることが、歌道の常識に反すると難じたのでしょう。

それに対して去来は、

去来曰く、「山路に菫をよみたる証歌多し。湖春は地下の歌道者なり。いかでかくは難じられけん、おぼつかなし」(同)

と反論し、芭蕉に助け船を出しています。では本当に証歌は多くあるのでしょうか。これについては同じく門人の各務支考も、『葛の松原』(元禄五年刊)でほぼ同様のことを述べています。しかしながら「すみれ」が詠まれている和歌を検索しても、「山」で詠まれた歌はヒットしません。かろうじて『堀川百首』にある大江匡房の、

箱根山薄紫のつぼすみれ二しほ三しほたれか染めけん

が見つかったくらいです。どうやらこの論争に関しては、湖春に軍配があがりそうです。

では、歌道の常套から外れたこの句は駄作なのでしょうか。そもそも和歌というのは、一つの詠み方が流行すると、次第に詠まれなくなるものです。そしてまた新しい詠み方が誕生するのです。だから和歌に「山」の「すみれ」が詠まれていないことは、決して芭蕉の句の欠陥とはなりません。むしろ「すみれ」の新しい詠み方が発明されたとすべきでしょう。いい換えれば和歌の伝統を破って、「山路のすみれ」を詠んだことこそは、芭蕉の句の斬新さというか、新たな美の発見だったといえます。やはり『野ざらし紀行』において、芭蕉は開眼していたのです。

余談ですが、「山路きて」の句碑は全国に五十近くあるそうです。「すみれ」はどこにでも咲いているし、この句には地名が詠まれていないので、どこの「山路」でも通用するからでしょう。面白いのは、大江匡房の歌に詠まれている箱根路(正眼寺)にも、句碑が建立されていることです。「山路のすみれ」の証歌としてあげられた歌があることで、いつしか芭蕉の句は「箱根」で詠まれたという説まで浮上したのでした。

※所属・役職は掲載時のものです。