南天の雑学

2023/01/20

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

南天はメギ科ナンテン属の常緑低木で、夏に白い花を咲かせ、冬には丸くて赤い実を付けるので、よく庭木として植えられています。もともとは中国原産ですが、薬用として早くに日本にもたらされたものが、野生化して西日本全般に広まったとされています。

薬用とされるだけあって、葉や実には殺菌効果があるので、実が弁当に添えられたり、赤飯を入れる重箱の底に葉が敷かれたり、あるいは赤飯の上に添えられたりしています(食中毒よけ・腐敗防止)。彩が美しいので、正月飾りにも使われていますね。また南天の枝で作った箸を使うと、中風にならないとか長寿になるといわれているのも、殺菌作用があるからでしょう。

江戸時代以降は、厠の近くに植えられることが多かったようです。その葉を手水にいれ、葉に含まれるナンニジン(微量のシアン化水素)で手を清めていたのです。特に実に含まれるナンテニン(メチルドメスチン)には咳止めの効果が認められています。それを原料にしたのが南天のど飴です。

それとは別に『和漢三才図会』には、南天を庭に植えれば火災を避けられるとあり、そのためどの家も南天を玄関に植えたそうです。これは赤い実に厄除けの御利益があると信じられたからです。また「南天」は「難転」に通じることから、災いを転じて福となすという縁起物としても信仰されたのでしょう。魔除けとして鬼門の方角に植えられることもありました。

赤い実が火のように見えたことから、中国では「南天蜀」と称されています。これは食堂の灯という意味で、野鳥が実を食べに集まる様を見立てたといわれています。また葉が笹の葉に似ていることから、「南天竹」とも称されています。ただし平安時代の貴族には評価されなかったようで、古い記録には出てきません。かろうじて鎌倉時代の藤原定家の日記『明月記』寛喜二年(1230年)六月二十二日条に、

暮にのぞみ、中宮の権の大夫、南天竺を選ばれ、前栽に之を植ふ。

と記されているのが初出とされています。これによって邸宅の前栽に植えられていたことが察せられます。「南天竺」というのは南インドのことですが、そこが南天の原産地だと思われていたのでしょう。あるいは仮名表記すると「なんてんちく」となるので、「南天竹」のことをそう表記したのかもしれません。日本では「竺」を省略して「南天」といっているのです。

『明月記』より少し後の『とはずがたり』外宮参籠のところにも、「前なる南天の枝を折りて、四手に書きて遣はしはべりしかば」(467頁)と出ています。繰り返しますが、南天は平安時代の用例が見られず、当然和歌にも詠まれていません。それだけでなく、江戸の俳句にも見かけません。芭蕉や蕪村は南天を詠んでいないのです。かろうじて勝見二柳の「うすうすと南天赤し今朝の雪」と、小林一茶の「南天よ炬燵やぐらよさびしさよ」という句が見つかった程度です。もちろん明治以降の俳句には詠まれていますが、これぞという句が思い浮かびません。

むしろ私の心に残っているのは、永井隆作詞・山田耕筰作曲の「南天の花」という歌謡曲です。御承知のように、永井隆は『長崎の鐘』の作者であり、長崎で被爆し自らも白血病に苦しみながらも、被爆者の治療を続けた医師です。その歌詞は次のようになっています。

南天の花 咲きぬ ひそかに 咲きぬ おもかげは かなしかるもの
この花の しずけさに似て 焼跡に ふたたび生きて 南天の花は 咲きぬ
南天の花 散りぬ ひそかに 散りぬ おもかげは ほのかなるもの
この花の はかなさに似て 焼跡に われのみ生きて 南天の花に 泣きぬ

永井の妻・緑さんは自宅で亡くなっていましたが、その庭にあった南天は被爆しても生き延びていました。それを如己堂に移し植え、その花を見て作詞したということです。なお副題には「長崎の哀歌」とありました。

※所属・役職は掲載時のものです。