あけぼのや白魚白きこと一寸

2022/11/15

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

芭蕉(桃青)は『野ざらし紀行』の旅の途中、貞享元年(1684年)11月に桑名を訪れ、

雪薄し白魚しらうお白きこと一寸いっすん

という句を詠んでいます。季語は「雪薄し」ですから、冬11月にふさわしい句だといえます。まだ暗いうちに起きて、薄く雪の積もったまだほの暗い浜に出てみると、一寸ほどの小さな白魚が海岸に打ち上げられていたのでしょうか。それとも白魚漁でも見たのでしょうか。ただし白魚漁は春に行われるものなので、冬には行われていなかったかもしれません。

ちなみに春の白魚漁だと、二寸くらいに成長しているそうです。実はこの句には、杜甫の「白小」という詩の「白小みな命を分かつ、天然二寸の魚」が踏まえられているとされています。杜甫の二寸に対して芭蕉は一寸です。一寸というのは、白魚としてはかなり小さいことになります。その意味では11月の方がふさわしいことになります。やはり季語は冬にすべきではないでしょうか。

この際、「しらうお」と「しろうお」の違いにも触れておきましょう。みなさんは両者の区別ができますか。

まず「しらうお」にしても「しろうお」にしても、これは稚魚ではなく成魚だそうです。稚魚は「しらす」と呼んで区別しています。また「しらす」はイワシだけでなく、いろんな魚の稚魚をひっくるめての名前です。それに対して「しらうお」「しろうお」は、種類が決まっています。「しらうお」はシラウオ科で、「しろうお」はハゼ科の魚だそうです。区別するために「しろうお」は「素魚」と漢字表記しているそうです。

「しらうお」は江戸っ子が好んで食したために有名になりました。一方の「しろうお」は踊り食いに用いられています。私は福岡に住んでいましたが、室見川の「しろうおの踊り食い」は名物として有名でした。

さてこの句には、雪の白さと白魚の白さが重ねられています。それが却って感動の焦点を二分させているという批判もあります。雪と白魚という二つの白が、その効果を減殺させてしまい、印象がそれこそ「薄く」なってしまうというのです。

おそらく芭蕉も気になったのでしょう。そこで「雪薄し」を推敲しました。最終的には雪の白さを捨て、

あけぼのや白魚白きこと一寸

としています。具体的な「降雪」をやめて「あけぼの」という時間帯に改変したことで、季語は冬から春に移りました。確かに春なら白魚漁に適しています。しかもこの句が詠まれたことで、白魚漁は桑名の名物として定着していったそうです。

この推敲のことは、門人の各務支考かがみしこうの『おひ日記』(元禄8年刊)に、

雪うすし白魚しろきこと一寸
此五文字いと口おしとて、後には明ぼのともきこえ侍りし。

と、上五を改変したことを書き残しています。同様のことは服部土芳の『三冊子さんぞうし』にも、

明けぼのや白魚白きこと一寸
この句、はじめ、雪薄し、と五文字あるよし、無念の事也といへり。

と記されていました。芭蕉は本当に「雪薄し」を「口おし」「無念」と思ったのでしょうか。

なお「あけぼの」という語は、『枕草子』初段に「春はあけぼの」とあることがよく知られています。それによって、他の季節を差し置いて「春」の季語に定着しました。しかしながら「あけぼの」の時間帯は、暗いのか明るいのか、薄暗いのか薄明るいのか、なかなかはっきりしません。一般には明るくなりかける頃とされていますが、そんな明るさで白魚がどの程度見えたのか、あるいは白魚の白さが際立ったのか、正確に説明することは難しいようです。その意味でも、この句の鑑賞はまだ万全とはいえません。

いずれにしても芭蕉の句に関しては、推敲することによって名句へと変身・昇華している句が案外多いことに留意してください。芭蕉は推敲する俳人だったのです。

※所属・役職は掲載時のものです。