「桜狩り」と「紅葉狩り」

2022/11/03

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

春に桜が咲くと、みなさんは花見に出かけますよね。たいていは一人ではなく、グループで行きます。もちろんただ桜を眺めるだけではなく、そこで弁当を食べたりお酒を飲んだりして騒ぎます。それは決して世界共通の行楽ではなく、日本独自の文化のようです。当然、かなり古くから花見は行われていました。

古典ではそれを「桜狩り」と称しています。それと対にされているのが秋の「紅葉狩り」ですね。では「桜狩り」と「紅葉狩り」はどちらが先に行われたのでしょうか。あくまで文献の初出で判断すると、「桜狩り」は『うつほ物語』吹上上巻で、

桜狩り濡れてぞ来にし鶯の都にをるは色のうすさに(松方)

と歌われていました。また『拾遺集』にも、

桜狩り雨は降りきぬ同じくは濡るとも花の影にかくれん(50番読み人知らず)

と詠まれていました(説話では藤原実方の歌としています)。

それに対して「紅葉狩り」は平安時代の文献を探しても見つからず、ようやく鎌倉時代の『夫木和歌集』に、

時雨ゆく交野の里の紅葉狩り頼むかげなく吹く嵐かな

とあるのが初出とされています。幸いこれは『壬二集』2527番の歌なので、藤原家隆の作であることがわかりました。これによって、「桜狩り」がずっと先行していて、「紅葉狩り」は遅れていることになります。あるいは「紅葉狩り」という言葉は、謡曲「紅葉狩り」によって一般化したともいえそうです。

だからといって、平安時代に「紅葉」を見物していなかったかというと、そんなことはありません。「紅葉狩り」ならぬ「紅葉見」なら、『源氏物語』椎本巻に、

この秋のほどに、もみぢ見におはしまさむと、

と出ています。また『拾遺集』にも、

紅葉見に宿れる我と知らねばや佐保の川霧立ち隠すらん(193番)

とあるし、『小大君集』にも、

おぼつかな何に来つらん紅葉見に霧の隠せる山のふもとに

と詠まれているので、「紅葉見」が一般的な言い方だったことがわかります。

では「桜見」はどうでしょうか。残念ながら「桜見」は室町時代以降の用例しか見つかりませんでした。念のために「花見」を調べてみると、平松家本『平家物語』「一谷合戦事」に、

春の比、女院、法勝寺へ花見の御幸有し時に、

とありました。ただしやはり平安時代の用例は見当たりません。

実は宮廷行事としては、「花宴」と称されていました。そのことは『類聚国史』弘仁三年(812年)条に、

幸神泉苑、覧花樹、命文人、賦詩、賜綿、有差、花宴之節、始於此矣。

と出ており、これが「花宴」の始まりとされています。また『うつほ物語』国譲下巻にも、

嵯峨の院、花のえんきこしめさんとて、

とあります。『うつほ物語』には、「桜狩り」と「花宴」の両方の例が認められることになります。

なお『日本国語大辞典第二版』の「花見」の語誌には、

平安時代、宮廷では花見は節日とされた。「日本後紀弘仁三年(八一二)二月辛丑」に、神泉苑で花を見て文人に詩を作らせたとあるのが、「花の宴」の始まりとされる。貴人の遊びとしても大いに広まり、「桜狩」とも呼ばれた。交野では桜を見ながら鷹狩を楽しむこともあり、これも「桜狩」と呼ばれた。

云々と記されていました。

ところで、みなさんは「桜狩り」・「紅葉狩り」に「狩り」が付いていることについてどう思われますか。これを字義通りに取ると、「きのこ狩り」・「みかん狩り」・「鷹狩り」や「潮干狩り」などと同じ仲間になります。一般には「狩」ではなく、「~のもとへ」という意味を有する「がり」(接尾語)と考えられています。わざわざ桜や紅葉を見物するために、遠くまで出かけることをいいます。

もっとも交野は皇室の領有地ですから、「鷹狩り」の場所でありながら、桜の名所でもありました。『伊勢物語』八十二段では、交野の狩りの途中で桜の花見が行なわれています。ここに「桜狩り」はありませんが、藤原俊成は『新古今集』に、

またや見ん交野の御野の桜狩り花の雪散る春の曙(114番)

と詠んでいます。これに家隆の「紅葉狩り」が加わるわけですから、交野こそは「鷹狩り」・「桜狩り」・「紅葉狩り」が総合的に行われた特別の場所(聖地)だったといえます。

※所属・役職は掲載時のものです。