和菓子「おこし」の起源

2022/10/14

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

子供のころ、「おこし」はご馳走でした。私は長崎に住んでいたので、「諫早おこし」が定番でした。砂糖がまぶしてあって、しかもピーナッツが入っていたことを覚えています。どうやらそれは、森長の「ピーナッツおこし」だったようです。あれから何十年も口にしていませんが、思い出として今も記憶に残っています。

大きくなってから、「おこし」にはいろんな種類があることがわかりました。例えば東京名物の「雷おこし」、大阪名物の「粟おこし」・「岩おこし」などは有名ですね。ただ年を取ると、噛んだ時に歯にくっつくので、好んでは食べなくなってしまいました。

さてこの「おこし」は、和菓子としてかなり古い歴史があるようなので、その起源を調べてみました。まず和菓子には生菓子と干菓子がありますね。当然、「おこし」は干菓子に分類されます。

そもそも「和菓子」は中国から伝来した「唐菓子」から発展したものとされています。奈良時代には伝わっていたようですが、記録としては平安時代の『延喜式』に登場しています。その中の一つである「粔籹(きょじゅ)」が「おこし」の祖型とされています。原料がもち米・うるち米・あわなどだったことから、『和名抄』には「おこし米」(興米)という名称で掲載されており、しかも「粔籹は蜜をもって米に和し、煎りて作る」とその製法まで記されています。

下って『古今著聞集』巻18(飲食28)には、

法性寺殿、元三に、皇嘉門院へまひらせ給たりけるに、御くだ物をまひらせられたりけるに、をこしごめをとらせ給ひてまいるよしして、御口のほどにあてて、にぎりくだかせ給たりければ、御うへのきぬのうへに、ばらばらとちりかかりけるを、うちはらはせ給たりける、いみじくなん侍ける。

とあり、関白忠通が娘の聖子(崇徳帝后)に「おこし」を進上したところ、ぼろぼろと衣装にこぼれかかったという記述が出ています。当時の「おこし」はさほど固くなかったようです。また『猫の草子』にはネズミの好物の一つに「おこし米」があげられています。

穀類と水飴があれば作れることから、江戸時代になると庶民のお菓子となり、「おこし」という名も定着しました。その製法は『料理物語』や『和漢三才図絵』などに記載されていますが、宝暦十年(1760年)の川柳には「雑兵はおこしのよふな飯を食ひ」とあり、これを見るとやはりばらつきやすいものだったことが察せられます。

その「おこし」の欠点を改良したのが、大阪道頓堀の津ノ国や清兵衛(津の清)の「粟おこし」でした。これは「粟おこし」と称しながら、原料は米と黒砂糖を用いて板状にしたもので、現在のような固い歯ざわりが評判になったことで、「岩おこし」とも称されています。

東京の「雷おこし」は、寛政七年に浅草寺に雷門が再建された時に、名物として売り出されたそうです。ここまでくると、中国伝来のものとは異なり、もはや日本独自の「おこし」といってもよさそうですね。

その他、全国にはさまざまな「おこし」が残っています。京都では三角形の「おこし」が一般的だったそうです。愛知県豊橋市には「ゆたかおこし」がありますが、これは柔らかい「おこし」の代表です。岐阜県にはちょっと変わった「おこし」があります。一つは飛騨地方の「こくせん」です。これは胡麻や落花生を使ったもので、最後にきな粉をまぶすのが特徴です。また笠松町の「しこらん」は肉桂入りで、豊臣秀吉も食べたとされるものです。熊本県の「よくいにん糖」(ハトムギの胚乳)は細川忠興が考案したともいわれています。漢方薬に近いもので、独特の匂いがあり、おいしいものではありません。

その他、九州には「諫早おこし」だけでなく、博多の「黒田おこし」、久留米の「あわやおこし」、唐津の「松原おこし」などたくさんあります。いかがですか、「おこし」にもこんなに深い歴史と広がりがあったのです。これからは心して食べてくださいね。

※所属・役職は掲載時のものです。