「いづれの御時にか」―『源氏物語』を読むこと―

2022/10/03

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

みなさんは「いづれの御時にか」で始まる作品をご存じですよね。そう、お馴染みの『源氏物語』桐壺巻の冒頭部分です。あまりにも有名すぎる文章ですが、だからといってここをあっさり読み流してはいけません。ここに作者(紫式部)の創意工夫が籠められているからです。

まず、「昔」や「今は昔」で始まっていないことに注目して下さい。従来の物語の伝統的な冒頭は「昔」あるいは「今は昔」であり、そして必ず文末に助動詞「けり」(伝承過去)が用いられていました。例えば『竹取物語』は「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり」ですし、『伊勢物語』も「昔、男、うひかうぶりして、奈良の京春日の里にしるよしして、狩にいにけり」でしたよね。『うつほ物語』も「むかし、藤原の君ときこゆる一世の源氏おはしましけり」で始まっています。これらは物語の冒頭形式を踏襲しているのです。

もちろんここに用いられている「昔」や「今は昔」は、決して限定された過去ではありません。ですから間違っても「いつごろ?」などと質問してはいけません。むしろ時間と空間を越えて、日常から物語(非日常)の幻想世界へと誘うキーワード、あるいは語り手と聞き手の暗黙の了解事項と思ってください。それを近代的に〈話型〉と定義してもかまいませんし、物語の約束事(古代性)と思ってもかまいません(英語のワンス・アポンナ・タイム)。これが守られているからこそ、読者はその語り出しを聞くことによって、安心して物語世界にのめり込むことができたのです。

ところが『源氏物語』は、その伝統的パターンを破って、いきなり「いづれの御時にか」と天皇の御代から語り出しました。おそらく当時の読者は、これを見て(聞いて)大いに驚き、かつ何かしら不安に思ったことでしょう。しかし現代の読者(みなさん)は、この特異な冒頭表現を見ても驚きませんよね。それどころか、特異であることにすら気付いていませんよね。それでは最初から、『源氏物語』の読者としてふさわしくないことになります(読者失格!)。それほどこの書き出しは斬新だったのです。

それだけではありません。「いづれ」という疑問を含む設定によって、一種の〈謎解き〉の興味も付与されています。物語が展開される中で、これは光孝天皇の御代なのか醍醐天皇の御代なのか、それとも一条天皇をモデルにしているのか、などとさまざまに推理を働かせるからです。すぐに物語の主人公・光源氏を紹介せず、どの御代の天皇であるかを問いかけるのは、『源氏物語』が歴史性(天皇制)を重んじているからでしょう。これによって現実味も一層増してきます。

この特異な冒頭表現に関しては、白楽天の「長恨歌」冒頭の「漢皇色を重んじて傾国を思ふ」が踏まえられているだの、流布本『伊勢集』冒頭の「いづれの御時にかありけむ、大御息所と聞こえける御局に」の模倣だのといわれていますが、当っていません。むしろこれが新しい試みであり、それによって後宮における秩序の乱れを意図的に語り出そうとしていることを認識してください。

その上で、天皇の寵愛を一身に受ける桐壺更衣が紹介されます。もちろん後宮は秩序を重んじる世界です。というより、後宮というのは統治の象徴でした。後宮の女性達の背後には、政治に関与しうる実力を有する男性官僚達が常に存在しているからです。だから天皇は、その女性達のバックを配慮しつつ、ヒエラルキーに応じて愛を分かち与え、彼女達を巧みに管理・操縦しなければなりません。

それにもかかわらず、後見のいない身分低き更衣が天皇の寵愛を独占するというのでは、収まりがつかないのです。そのため更衣が天皇に愛されれば愛されるほど、後宮におけるいじめは激しさを増します。そして結果的に、天皇の寵愛がかえって更衣の寿命を縮めることになるのです(愛は殺人?)。『源氏物語』は、決して単純な恋物語ではないことを理解してください。

これが従来のような「昔」始まりであれば、読者は語り手に対してただ相槌を打つだけよかったのですが、『源氏物語』では最初から〈なぜ?〉という疑問を突きつけられることになります。それによって繰り返し読者の教養や人生経験が、物語の読みへ反映させられることになります。あなたならどう考えますか、この問いかけこそが、『源氏物語』から読者へのメッセージなのです。

そしてこの問いかけの答えを考えることが、『源氏物語』を読むことなのです。もちろんその答えは、読者の習熟度によって変わります。ただしこのキャッチボールは原文でしかできません。現代語では一方通行(受け身)になるからです。今まで現代語訳で満足していたあなた、『源氏物語』を理解していると思っていたあなた、あなたは大きな勘違いをしていたのではないでしょうか。それ以上に損をしていたのではないでしょうか。

なお興味のある方は、吉海直人著『源氏物語入門』(角川ソフィア文庫・令和3年刊)をお読みになってください。

※所属・役職は掲載時のものです。