七夕伝説と「月の舟」

2022/07/05

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

令和4年の七夕(旧暦)は8月4日になっています。かつて「七夕」のコラムで、中国では織女が鵲の橋を渡って彦星に会いに行くのに対して、日本では彦星が舟に乗って織女に会いに行くと、その違いを述べました。そのことは『万葉集』以下の古典和歌を参照すればよくわかります。

ここでお断りしておきたいことがあります。『万葉集』に鵲の用例はありません。百人一首に採られている大伴家持の「かささぎの」歌にしても、『万葉集』所収歌でも家持の自作でもなく、平安時代成立の『家持集』にある歌でした。要するに『万葉集』において、七夕と鵲の結びつきは皆無ということになります。それは鵲が中国の鳥(漢詩に詠まれる鳥)だからでしょう。

それに対して「月の舟」に乗る歌は、『万葉集』に三首認められます。

天の海雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ(1068番・拾遺集488番)

春日なる三笠の山に月の舟出づみやびをの飲む酒杯に影に見えつつ(1295番)

天の海に月の舟浮け桂楫掛けて漕ぐ見ゆ月人をとこ(2223番)

ただし歌を見ても、七夕とかかわりがあるようには思えません。では月が舟のように見えるのは、月がどんな形の時でしょうか。ヴェネツィアのゴンドラのような三日月形も捨てがたいのですが、七夕ですから半月(上弦の月)がもっともふさわしいようです。それでも七日の月なら一年に十二回もあります。もちろんその中では、七夕が旧暦の七月七日なので、文学としてふさわしいのではないでしょうか。

もっと絞り込んでみましょう。2223番にある「月人をとこ」(月人壮士)は、他に2010・2043・2051・3611番の4首にも見られますが、これらはすべて七夕に詠まれた歌でした。となると、2223番も七夕の歌と見るのが妥当でしょう。加えて2223番には「天の海」「月の舟」とありますが、それは1068番にも用いられていますね。

1068番など、「天の海」「雲の波」「月の舟」「星の林」という四つの言葉が漢詩の対句のように並べられています。そのためこれらは漢詩からの引用と思われがちですが、面白いことに「月の舟」「星の林」という言葉は中国の漢詩には見られず、日本で醸成された独自表現とされています。もともと中国では織女が彦星に逢いに行くのですから、そういった発想は生まれなかったのでしょう。

もしそうなら、「月の舟」に乗った彦星が、織女の待つ「星の林」に漕いでいくという解釈ができます。そうなると「月の舟」が彦星で「星の林」が織女の喩になります。そういった理解に影響されたのか、『和歌童蒙抄』(歌論書)では初句「天の海」が「天の川」に変えられています。これなら間違いなく七夕の歌です。

もう一つ、『懐風藻』(漢詩集)にある文武天皇の「詠月」題の詩に、「月舟移霧渚」とあることがあげられます。これが「月舟」の初出のようです。加えて『万葉集』1068番は柿本人麻呂歌集にある歌なので、文武天皇の文化サロンに初登場した「月舟」から、すぐに「月の舟」という和訓(歌語)が成立したようです。おそらく七夕の宴会(詩会・歌会)において、漢詩と和歌がほぼ同時に詠み出されたのでしょう。ということで、「月の舟」という言葉が誕生したのは、文武天皇の御代ということになりそうです。

ところで七夕の夜に逢瀬をもった二人には、やがて別れの時が迫ってきます。彦星は天の川を渡って帰らなければならないのです。そこで『古今集』には、

久方の天の川原の渡し守君渡りなば楫隠してよ(174番)

という歌があります。これは織女の視点から、彦星が帰れない(向こう岸に戻れない)ように、舟の楫を隠してほしいという切ない恋歌です。平安朝においても、彦星が舟で天の川を渡ることが継承されていたことがわかります。

二人は年に一度、七夕の夜だけしか逢えないのですから、ここで別れたら来年の七夕までずっと逢えません。だから織女は彦星を帰したくないのです。ただし数学の世界だと、一年に一回でもそれが無限に続くのであれば、二人は毎日逢っているのと変らない(無限大に増加する)という解釈もできるそうです。文系の私の頭ではなかなか理解できない理論ですが。

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