「ひく」と「しく」の違いについて

2022/04/01

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

みなさんに質問です。布団は「しく」ものですか「ひく」ものですか。そんなこと簡単、布団は「敷く」に決まっている、という声が聞こえてきそうです。確かに畳んであったものを広げるのですから、「敷く」の方がよさそうに思えます。「しき」布団はあっても「ひき」布団はありませんよね。でも案外ややこしいことがあるようです。というのも、「しく(敷く)」と「ひく(引く)」の使い分けが、地域(方言)によって、また時代によって異なっているからです。

たとえば、質屋は「しちや」が正しいはずですが、長崎で生まれ育った私は、小さいころ「ひちや」と口にしていました。七五三は「ひちごさん」、「七月」は「ひちがつ」です。それに類似する例として、「しつこい・ひつこい」・「したい・ひたい」・「おしたし・おひたし」・「ももしき・ももひき」などがあげられます。亭主は女房の尻に「しかれる」のでしょうか「ひかれる」のでしょうか。

こうしてみると、一概に「し」が正しくて「ひ」が間違いだとは断言できそうもありません。むしろ地域差を考えると、関西では「ひ」が優勢で、関東では「し」が優勢という傾向が見えてきます。これは表記というより地域の問題だったのです。もちろん関東でも「ひく」派はいるし、関西にも「しく」派はいます。近い将来、「ひく」の方が共通語になる可能性だってあります。

こういった場合、大抵は江戸時代において、関西と関東で使われ方が異なっていた可能性が高いようです。よく引用される『浪花聞書』という江戸時代の方言辞典には、「ひく 蒲団(など)敷をひくといふ」とあって、明らかに大阪方言としてとらえられていることがわかりました。それに対して関東の人は、「ひ」がうまく発音できなかったので、「し」と発音したともいわれています(「広い」を「しろい」という人もいるようです)。

もちろん「しく」と「ひく」の地域的な違いも見逃せませんが、どうやらそれも単純ではありません。例えば車(交通事故)だったら、「しかれる(敷)」のでしょうか「ひかれる(轢)」のでしょうか(「はねられる」もあります)。また油だと「しく」より「ひく」の方が優勢、というより引き伸ばすのであれば「ひく」の方が正しいのではないでしょうか。

これがカーテンや幕なら、「ひく」とはいっても「しく」とはいいませんよね。こうなると下に用いる場合が特にややこしいことになります。というより「ひく」にも引っ張る以外に広げる・引き延ばすという意味があったのです(シーツは「引く」ですよね)。

ではもっと古い例をあげてみましょう。平安時代の歌人・伊勢の家集に、

    前栽うゑさせたまひて砂子ひかせけるに、家人にもあらぬ人の砂子おこせたれば

  荒磯海の浜にはあらぬ庭にても数知られねば忘れてぞ積む

とあって、詞書に「砂子ひかせける」と出ています。これは前栽(庭)に砂を敷き詰めることですが、「しく」ではなく「ひく」とあります。

もちろん伊勢が使い方を間違えたのではありません。「敷く」と「引く」は平安時代から混沌としていたのです。というより、「ひく」にも一面に広げるという意味がちゃんと備わっていたので、混同されやすかったのでしょう。

いかがですか。「しく」と「ひく」が一筋縄ではいかないこと、おわかりいただけましたか。単なる地域的な発音の違いだけでなく、歴史的な用法の混同まで入り混じっていたのです。それが関西(旧)と関東(新)に別れて残っているというわけです。ちなみに青森や北海道も「ひく」だったようで、特に太宰治の小説には、「一組のお蒲団をひいて」(斜陽)・「自分の蒲団をどたばたひいて」(姥捨)・「黙って蒲団をひいて」(犯人)・「蒲団ひいて寝て」(新樹の言葉)などの例が見られます。

なお別な言い方で「床をとる」があります。これについては、かつて外国の女性が旅館に泊まった際、仲居さんから「お床をとりましょうか」といわれ、驚いて「ノーサンキュー」と答えたという笑い話があります。外国の女性は「男をとりましょうか」と勘違いしたのです。

※所属・役職は掲載時のものです。