『更級日記』「はしるはしる」の解釈

2022/03/22

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

『更級日記』の「をばたまもの」章には、叔母から『源氏物語』五十余巻を櫃ながらプレゼントされた作者の喜びが表現されています。その中に「はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を」(新編全集298頁)という有名な一文があります。これは古文の教科書にもよく採用されているところなので、高校の授業で習った覚えがある人も多いはずです。

では、みなさんは「はしるはしる」をどんな意味だと教わりましたか。小学館の新編全集の頭注を見ると、「とびとびにの意」と書かれていました。かつて高校生だった私も、確かこの意味で教わったように記憶しています。ところがそれに続いて、「他に、胸をわくわくさせ、帰途の車を走らせながら、などの解もある」と補足されていました。なんと「胸をわくわくさせ」や「車を走らせながら」という別解もあったのです。あえて3つの解が掲載されているということは、必ずしも意味が定まっていないからなのでしょう。

むしろ最近の教科書や古語辞典は、「胸をわくわくさせ」で解している方が優勢のようです。現在の高校の教科書にどのように書かれているのか気になったので、第一学習社標準古典の指導書を参照してみました。するとやはり「胸をわくわくさせて」となっており、それに続いて「ここは「とびとびに」「大急ぎで」「車で走り走り」などとも訳されてきた」と別解にも言及されていました。

どうしてこんなに大きく解釈が分かれているのでしょうか。その理由の1つは、これを現在のこととみるか、それとも過去のこととみるかにありそうです。わかりやすくいうと、「はしるはしる」をそのまま「わづかに見つつ」につなげると、それは過去の読書体験になります。また「はしるはしる」で一度切ると、現在のことになります。

要するに構文のとらえ方によって時制が異なるので、それに伴って解釈が違ってくるのです。はたしてどちらが正しいのでしょうか。もちろんどちらかが正しくて、どちらかが間違っているのではありません。どちらも間違ってはいないので別解が列記され、判断は読者に委ねられているのです。ややこしいですね。

繰り返しますが、「とびとびに」(とぎれとぎれに・部分的に)は過去の読書体験であり、「どきどきして」は『源氏物語』五十余巻を入手した現在の気持ち(胸の高まり)になります。これをよりリアルな表現とすると、叔母の家から帰る牛車の中で、一刻も早く自宅に帰って読みたいという作者の胸中をうまく描出していることになります。どれも捨てがたいですね。

もう1つの理由があります。高校ではほとんど触れられないようですが、「はしるはしる」という用例は、他の作品に見当たらない『更級日記』の孤例(独自表現)であることも、解釈を困難にしているのです。まして単独の「走る」に「とびとび」などという意味はありませんよね。

用例を探してみると、かろうじて中世の『筑波問答』に、「ただ某のことと御尋ねにつきて、はしるはしるも申さん」(16頁)とあって、ここでは「ざっと申しましょう」と訳されていました。これを『更級日記』に援用しているのかもしれません。要するに後世の作品を典拠にして、『更級日記』が解釈されているのです。でも「ざっと」がどうして「とびとびに」になるのでしょうか。これを知って、高校生は納得するでしょうか。

一方「どきどきする」は、「胸走る」という言葉があることで、優勢になっているのかもしれません。そのため「日本国語大辞典」は、『更級日記』の本文を引用して「胸をわくわくさせながら」の意味だけ載せ、「とびとびに」の意味は掲載していません。

しかしながら「胸走る」は期待感とか喜びだけでなく、「胸騒ぎがする」意味もあり、必ずしもぴったりしているとはいえません。第一、『更級日記』の用例に「胸」はついていないのですから、いささか飛躍がありそうです。こうなると「胸がわくわくする」も「とびとびに」も、決め手に欠けていることになります。これでは試験に出せませんよね。

いかがですか。こんな有名なそして単純な言葉でありながら、「はしるはしる」は比較できる他の用例が皆無(孤例)ということで、解釈が確定できていないのです。何故高校では、他に用例のない珍しい表現だとか、解釈が1つに絞れない言葉だと正直に教えないのでしょうか。そもそも先生方は、こんなややこしい問題があることをどれだけ自覚しているのでしょうか。

※所属・役職は掲載時のものです。