「紅梅」の基礎知識

2022/03/08

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

「梅」については、『古典歳時記』の「日本人と「梅」」で述べました。そこでは「梅」が奈良時代に日本へ渡来したとしています。必然的に、それより古い『古事記』・『日本書紀』・『風土記』に「梅」は登場していません。『万葉集』においても、第三期以降にしか詠じられていないので、文献的にも奈良時代以降でほぼ間違いありません。

ただし漢詩の世界では、もう少し早く登場しています。『懐風藻』の葛野王の「春日翫鶯梅」題と、紀朝臣麻呂の「階梅闘素蝶」を含む漢詩に、「梅」が詠まれているからです。葛野王は大友皇子の子で、706年に亡くなっています。もう一人の紀朝臣麻呂も705年没なので、この漢詩は奈良時代以前に詠まれたことがわかります。もっとも、実際に「梅」を見て作ったのかどうかは疑問です。中国の漢詩を踏まえて詠むことも珍しくないからです。

これが「梅」の文化史の出発点です。もはやこれ以上付け加えることはないと思っていたのですが、平安時代の文学の基礎知識として、「紅梅」の伝来が抜けていることに気付きました。そこであらためて、「紅梅」について詳しくまとめてみました。当然ですが、「紅梅」の対として「白梅」があります(紅白)。「白梅」の方は「しらうめ」「はくばい」といいますが、「紅梅」は「こうばい」だけで「あかうめ」とはいわないようです。そもそも奈良時代に伝来したのは「白梅」一種でした。だからわざわざ「白梅」といわず、「梅」で済ませていました。その後に「紅梅」が入ってきたことで、両者を区別する必要が生じ、初めて「紅梅」「白梅」と称されるようになったというわけです。

「紅梅」の文献上の初出は、『続日本後紀』承和15年(848年)正月21日条で、

上御仁寿殿。内宴如常。殿前紅梅。便入詩題。

云々とあります。また『経国集』の紀長江の詩題にも「賜看紅梅探得争字応令一首」とありました。さらに『三代実録』貞観16年(871年)8月24日条に、

大風雨。折樹發屋。紫宸殿前桜。東宮紅梅。侍従局大梨等樹木有名皆吹倒。

とあることから、仁明天皇の頃には、仁寿殿だけでなく東宮御所にも紅梅が植えられていたようです。なお紀長江の詩には「二月寒除春欲暖」ともあって、「紅梅」は遅咲きで、春を告げる「白梅」が開花した後、遅れて咲いているように読めます。その伝統が俳句の季語にも反映しており、今もやや遅れて咲く梅というイメージが付与されています。

ただし漢詩の世界では、『経国集』に平城天皇在東宮の詩に「桃乱」とあることから、それが「紅梅」のことを指すとされています。同じく『経国集』の小野岑守の詩に「窓前将斂素。簾下未鎖紅」とあり、ここでは「素」(白梅)と「紅」(紅梅)が対句になっています。同様に和気広世の詩も「凌寒朱早発。競暖素初飛」と朱と素が対句になっているので、桓武天皇の時代には既に紅白の「梅」が邸の庭に植えられていたとされています。やはり漢詩の方が和歌より先行していました。

一方、和歌においては「白梅」「紅梅」とは詠まれていません。音読みは漢文的で和歌には似合わないと思われていたのでしょう。だから「紅梅」が日本に入ってきても、歌ではただ「梅」としか詠まれず、どれが「紅梅」を詠んだ歌なのかわかりにくかったのです。早い話、『古今集』に「紅梅」という語は使われていないので、『古今集』ではまだ「紅梅」はなかったと見る説もあります。

それが次の『後撰集』になると、3首の詞書に「紅梅」が書かれています(『古今六帖』にも「紅梅」の歌が4首あります)。それは藤原兼輔歌の「前栽に紅梅を植えて、又の春おそく咲きければ」(17番)、凡河内躬恒歌の「紅梅の花を見て」(44番)、紀貫之歌の「兼輔朝臣のねやのまへに紅梅を植て侍りけるを、三とせばかりののち花さきなどしけるを」(46番)です。すべて詞書であり、『後撰集』でも和歌に「紅梅」は詠まれていません。次の『拾遺集』になってようやく「紅梅」が、

鶯のす作る枝を折りつればこうばいかでか産まむとすらん(354番)

と詠まれていますが、これは物名(子をばいかで)ですから、美的な歌語として確立したとはいえそうもありません。

ここで注目したいのは、作者の貫之・躬恒・兼輔が『古今集』撰者時代の歌人だということです。ということは、彼らが詠んだ「紅梅」の歌が『古今集』に撰入される可能性はあったわけです。それについては、公任撰『和漢朗詠集』がヒントになります。『和漢朗詠集』では「梅」とは別に「紅梅」の項が立てられており、そこに2首の和歌が掲載されているからです。そのうちの1首は『古今集』所収の紀友則の、

君ならで誰にか見せん梅の花色をも香をも知る人ぞ知る(38番)

歌で、もう1首は花山院の歌です。

前に『古今集』に紅梅を詠んだ歌はないといいました。では公任は、何故友則歌を「紅梅」と認定したのでしょうか。それは歌に「色をも香をも」とあるからでした。「香」だけであれば普通の「梅」(白梅)ですが、「色」とあったらやはり「紅梅」を意識していると見たくなります。そうなると、貫之も『古今集』に、

色も香も昔の色に匂へども植ゑけむ人の影ぞこひしき(851番)

と詠んでいるし、友則には他に、

色も香も同じ昔に咲くらめど年ふる人ぞあらたまりける(57番)

もあります。ややこしいことに、これは「桜を」詠んだ歌でした。しかし「桜」を「色も香も」と詠むのであれば、「紅梅」もそれに当てはまるのではないでしょうか。

しかも友則は『古今集』上覧前に亡くなっているので、生前に「紅梅」を詠んでいたことになります。ということで私は、『古今集』ではまだ「紅梅」に対する美意識が整っていなかったものの、撰者たちは「紅梅」を先取りして歌に詠んでいたと見ています(「梅」については漢詩を含めて紀氏の関与がありそうです)。その「紅梅」は、『枕草子』でようやく「梅は、濃きも薄きも紅梅」と称賛され、また『源氏物語』では紫の上が格別大切にしています。平安中期には、和歌よりも散文で「紅梅」の美意識が高まっていたようです。

※所属・役職は掲載時のものです。