『雪国』冒頭をめぐって

2022/02/17

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

日本で最初にノーベル文学賞を受賞したのは川端康成の『雪国』ですね。二番目が大江健三郎(特定の受賞作品なし)で、三人目はまだ出ていません。毎年、村上春樹が候補にあげられていますが、いつになったら受賞するのでしょうか。

それはさておき、どうもノーベル賞の候補にあげられるためには、日本語だけでなく英語をはじめとする複数の外国語に翻訳されていることが条件のようです。というのも、審査する人たちが必ずしも日本語に堪能というわけではないからです。ということは、たとえ日本語の原作がすばらしくても、英訳がひどければ受賞できないということになります。

川端康成の場合は、サイデンステッカーが見事な翻訳をしています(作品名はSnow Country)。いいようによれば、彼の翻訳のお蔭で、川端は受賞できたわけです。なんだか本末転倒ですよね。しかしそうとばかりもいっていられません。日本の文学を英語に翻訳するのは、しかも文学的に翻訳するのは、思った以上に大変な作業だからです。『雪国』は「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」という一文からはじまっていますが、たったこれだけの短文にも、結構大変な苦労があったようです。

まず「国境」ですが、みなさんはどう読みますか。「こっきょう」ですか、それとも「くにざかい」ですか。周りを海で囲まれた日本だと、「こっきょう」にこだわりがないかもしれませんが、アメリカやヨーロッパでは地続きで他国と接しています。まさにトンネルを抜けたら外国ということが普通なのです。ですから「こっきょう」というのは、自国と他国の境になります。この場合、誤解されないためには「くにざかい」と読むのがよさそうですね。

なおこのトンネルは、上越線に開通した全長十キロ弱の清水トンネルです。昭和6年9月1日に開通しましたが、当時は全国一長い大トンネルでした(現在は廃線になっています)。「上越」の「上」は上野国(現在の群馬県)で、「越」は越後国(今の新潟県)のことです。それを結んでいるのが上越線でした。ですから古くは「くにざかい」だったことがわかります。ところが明治になって廃藩置県が施行され、「くにざかい」が消滅してしまいました。そのため若い人は「こっきょう」以外の読みを想定できなくなっているのです。ただし日本人は、前述のように「国境」意識が欠落しているのです。

このトンネルが縁で、昭和9年に川端は越後湯沢(湯沢温泉の高半(高橋半左衛門)旅館)を訪れるようになり、昭和10年から『雪国』の連載が始まりました。前に若い人といいましたが、どうも川端自身も「こっきょう」を意識していたようです。それを擁護する意見として、川端は「くにざかい」といった濁音は使わないという説もあります。作家自身が「くにざかい」を意識していないのに、第三者(研究者や教育者)が「くにざかい」が正しいというのは奇妙ですよね。むしろ学校では、「くにざかい」と「こっきょう」の読みの違いから、意味の違いを考えさせる設問にしたらどうでしょうか。

アドリブですが、みなさんはこの冒頭分が斎藤孝の『声に出して読みたい日本語』に掲載されていることはご存じですよね。その初版では「こっきょう」とルビが振ってありました。ところが重版されたものでは「くにざかい」に訂正されていたのです。斎藤氏は「こっきょう」を誤りと認めたのでしょうか。それとも批判に応じたのでしょう。

日本ではこんなに議論されていますが、では英訳はどうなっているのでしょうか。見ると、「The train came out of the long tunnel into the snow country」となっていました。これを日本語に戻すと、「汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た」になります。なんとサイデンステッカーはバッサリと「国境」を切り捨てています。それはおそらく日本に外国との国境がないことを知っていたからではないでしょうか。これも日本人とアメリカ人の視点の違いなのでしょう。川端は列車に乗った主人公島村の視線で書いていますが、サイデンステッカーはトンネルから出てくる列車を俯瞰している第三者視点から書いているとされています。小説の視点まで異なっているのです。

それはさておき、英訳で話題にされているのは「国境」ではなく、主語が列車になっていることでした。ご承知のように、日本語では主語の省略が許容されています。ところが英語ではそれが許されないのです。そう考えると、日本文学を英訳するのがどんなに大変かがわかります。サイデンステッカーは、たとえ川端の文章と大きく違っても、英語圏の人にわかるような文章で翻訳しているのです。こういった翻訳は、ある面では創作を含むリライト(加工)でもあります。

そのサイデンステッカーの英訳でノーベル賞を受賞しているのですから、それを日本人がとやかくいうのは見当違いだと思います。中にはサイデンステッカーの訳がへたくそだと非難する日本人もいたようですが、それは日本人だからいえることであって、外国では通用しません。ノーベル賞の決定権は外国人に委ねられているのです。

いずれにしても、日本文学が世界の文学になるためには、上手な人に翻訳してもらうのが近道のようです。

※所属・役職は掲載時のものです。