「ペチカ」について

2021/12/02

吉海直人(日本語日本文学科特任教授)

 

ロシアのことはよく知らないのに、何故かロシア民謡は大好きという人が多いようです。私もその一人ですが、10代の頃「ともしび」「カチューシャ」「トロイカ」「一週間」「小さいぐみの木」などを好んで歌いました。短調のどこかしら悲しい調べが、日本人の心にマッチしているのでしょうか。

そういった中に、実はロシア民謡ではないにもかかわらず、堂々とロシア民謡として歌われている奇妙な曲があります。その代表が「ペチカ」でした。この歌は北原白秋と山田耕筰のゴールデンコンビによって作られた童謡です。みなさんが小さい頃から愛唱している「からたちの花」「この道」「砂山」「待ちぼうけ」「あわて床屋」「鐘が鳴ります」もこの二人の合作でした。

今回はやや内容の異なる「ペチカ」について見ていきましょう。私が「やや内容の異なる」といったのは、そもそも「ペチカ」が日本のものではないからです。御承知のように、「ペチカ」はロシアでよく使われている暖炉の名称です。ですから作詞作曲の二人にとっても、決して馴染みのあるものではありませんでした。だからといって、わざわざロシア(旧ソ連)に出向いて見学したわけでもなさそうです。

内容は限りなくロシア風でありながら、その実これは満州の冬を念頭において作られたものでした。というのも、大正13年に刊行されている『満州唱歌集』にこの歌が収録されているからです。南満州教育会から満州に適した日本の童謡を依頼された二人は、わざわざ満州に赴いて、そこで日本から移民した人のためにこの曲を作ったというわけです。

もちろん満州の冬も厳しいので、雪の降る寒い夜に外へ出ることなどできません。暖炉の前に集まって長い夜を過ごします(一家団欒)。ぱちぱちと燃える火は、何かを語っているように聞こえるかもしれません。だから「ペチカ」に向かって「お話しましょ」と呼びかけているのです。なお山田耕筰はこの「ペチカ」に注を付けており、「ペチカ」ではなくロシア語風に「ペイチカ」と発音するようにと指示しています。

二番の歌詞に「くりやくりやと呼びますペチカ」とありますが、若い頃の私は意味がわかりませんでした。「くりや(厨)」は台所のことだという人もいました。また栗の皮を燃料として燃やすと解釈した人もいました。後で調べてみると、これは当時満州で名物とされていた「焼き栗売り」の売り言葉だとあったので、それでようやく納得しました。物売りの「竹や、さお竹」と一緒で、「栗はいかが」という掛け声だったのです。そうなるとますますロシア民謡からは遠ざかりますね。

三番の「いまにやなぎももえましょペチカ」も大間違いをしていました。もうすぐしたら燃えにくい柳(楊)の枝にも火がついて燃えるだろうと思っていたのです。よく考えると、その前に「じき春来ます」とあるのですから、これはもうすぐ春になると、柳の芽が萌え出すということだったのです。中国ではそれが春の訪れを告げるしるしだったのです。これも明らかにロシアの風習とは違っています。

もちろん満州の冬は、そんなに楽しいはずもありません。だからこそ歌によって少しでも厳しい冬を楽しく乗り越えようという、そんな思いが込められていたのです。ただし第二次世界大戦の敗戦によって満州は異国になり、もはやペチカが歌われることも少なくなりました。ところがそれから20年後の昭和40年12月、この曲がNHKのみんなの歌に登場して大ヒットしたのです。「ペチカ」も満州のことも知らない若い人たちは、この歌を異国情緒溢れるロシア民謡と勘違いしたからでした。

ところでこの「ペチカ」に、もう一つの「ペチカ」があることをご存知ですか。実は今川節という作曲家が、18歳の時に曲をつけていました。白秋など「私は今川君のペチカの方が好きだ」と語っています。山田耕筰にしても今川の才能を見込み、古関裕而と同じようにいろいろ援助したそうです。しかし惜しいことに、今川は結核が悪化して昭和9年に25歳の若さで亡くなってしまいました。残念ですね。

その年、彼の作曲した「ペチカ」は、東海林太郎が「ペチカ燃えろよ」というタイトルでレコーデイングしています。複合七拍子という珍しい曲ですから、是非一度聞いてみてください。

※所属・役職は掲載時のものです。