「浜辺の歌」の謎

2021/09/06

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

古渓(こけい)作詞・成田為三(ためぞう)作曲の「浜辺の歌」は、長く中学校の音楽教材となっており、また「日本の歌百選」にも選ばれたことで、愛唱した人は少なくないでしょう。そんな有名な「浜辺の歌」ですが、成立をめぐってすっきりしない謎があります。また歌詞にしても難解で、容易に解釈できない部分があります。

その歌詞は、大正2年8月に「音楽」という雑誌に「はまべ」という題で発表されました。その詩には「作曲用試作」と付記されており、古渓は誰かに作曲されることを前提で書いたようです。そこで編集者(音楽評論家)の牛山(みつる)が山田耕筰に相談したところ、山田は教え子の成田為三を指名しました。成田は西条八十作詞の「かなりや」を作曲した人としても知られています。なお8分の6拍子になっている「浜辺の歌」は、ヨハン・シュトラウスのワルツをモデルにして作られているという指摘もあります。聞いてみると確かによく似ていました。

こうして大正7年10月に、セノオ楽譜出版社から楽譜が出版されました。表紙絵を竹久夢二が飾ったこともあり、大きな反響があったそうです。原作は「はまべ」でしたが、楽譜では「浜辺の歌」になっています。それは曲名だけではなく、歌詞の表記改訂にまで及んでいました。もともと古渓は、題のみならず歌詞もひらがな表記にしていました。それが楽譜では、漢字仮名混じりに改変されています。しかもそれは、どうやら作詞家の意向を無視した改訂だったようです。

作詞家の意向といえば、現在「浜辺の歌」は2番までしか歌わせていませんね。しかし楽譜にはちゃんと3番の歌詞も掲載されていました。しかしその歌詞が難解なことから、最近は削除されることが多いとのことです。3番が難解であるのには理由がありました。というのも、古渓は当初4番まで作詞していたのに、「音楽」に掲載された時に、3番の前半と4番の後半がくっつけられて、4番がなくなっていたというのです。誰がそんな無茶なことをしたのでしょうか。

作詞した古渓自身、「これでは意味が通らん」と口にしたと、古渓の長男である林(おおき)(国語学者)が証言しています。林羅山に連なる漢学者の古渓ですから、そんな意味の通らない歌詞を作るわけがありません。もとあった3番の後半と4番の前半にどのような歌詞が書かれていたのか気になりますが、今となってはそれを知る手がかりはありません。ということで、古渓自身も3番を削除したかったようなのです。こうして3番の歌詞は、いつしか楽譜から消されてしまったというわけです。

では歌詞についてあらためて見ておきましょう。

一、あした浜辺をさまよへば むかしのことぞしのばるる
  風の音よ雲のさまよ よする波もかひの色も

二、ゆふべ浜辺をもとほれば 昔の人ぞ忍ばるる
  寄する波よかへす波よ 月の色も星のかげも

冒頭の「あした」は、もちろん明日のことではありません。2番の「ゆふべ」も昨夜ではありません。「あした」は朝で「ゆふべ」は夕方のことです。この二つで対になっています。続く「さまよへば」と2番の「もとほれば」は類義語で、ともに徘徊(散策)することです。朝に浜辺を徘徊すると「むかしのこと」が、夕方に徘徊すると「昔の人」が思い出されるというわけです。

「むかしのこと」「昔の人」とあっても、これだけではどんなこと・人なのかわかりません。ただし浜辺を散歩するのは、恋する若い男女がふさわしいかと思います。そこで3番の出番となります。

三、はやちたちまち波を吹き 赤裳のすそぞぬれもせじ(ぬれもひぢし)
  やみし我はすべて(すでに)いえて 浜辺の真砂まなごいまは

「はやち」は疾風のことです。「赤裳」というのは『万葉集』では若い女性の衣装です。疾風で強い波が生じ、赤裳の裾が濡れたのでしょう(「ぬれもひぢし」)。これは女性自身の視点でもいいのですが、その女性を見ている男性の眼差しでも通ります。それに続く「やみし」は、「病んだ」で、「いえて」は「癒えて」です。どんな病なのか、失恋なのか結核のような病なのかわかりませんが、それが原因で恋愛も破局を迎えたとすれば、「むかしのこと」「昔の人」はかつての恋人との記憶と解釈できそうです。それを一人で散歩しながら思い出しているわけです。

最後が難解です。「真砂」は「まなご」とも読むので、「まなご」が二度繰り返されていることになります。「愛子」はいとし子ですが、女性の幼子と見るより、女性そのものがかつての「愛子」だとすると、その女性が今はどうしているのか、と想像していることになります。この「浜辺の歌」は、古渓のかつての失恋の思い出を綴った歌だったのではないでしょうか。これが私の解釈というか想像です。

※所属・役職は掲載時のものです。