嵯峨野の「小督塚」

2021/04/15

吉海直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

嵯峨野(すすき)の馬場にある福田美術館の一画に、「小督塚」がひっそりと建っています。「小督」というのは、ご承知のように『平家物語』に登場している悲恋の女主人公です。桜町中納言藤原成範(しげのり)の娘(信西入道(通憲(みちのり))の孫)で、筝の琴の名手だったとされています。(たぐい)まれな美貌の持ち主だったようで、時の高倉天皇に見初められて後宮の寵姫となり、「小督の局」と称されました。父の官職が左兵衛督だったことから、女房名が「小督」とされたのでしょう。

しかしそれが中宮徳子(建礼門院)の父平清盛の怒りを買い、宮廷から追放されてしまいます。小督のことを諦めきれない高倉天皇は、秘かに源仲国を召して小督の探索を命じました。嵯峨野あたりに隠棲しているという噂を聞いた仲国は、馬を飛ばしてやってきましたが、探しあぐねて法輪寺の近くまでやってきます。その日はちょうど十五夜だったので、きっと小督は琴を弾くだろうと思って聞き耳を立てていたところ、案の定、遠くから琴の音がかすかに聞こえてきました。

一筋に雲井を恋ふる琴の音にひかれ(て)来にけん望月の駒(作者未詳)

(仲国の乗った馬は、ひたすら宮中の帝を恋い慕って弾いている小督の琴の音に引き寄せられてここまでたどり着いたことよ、この仲秋の名月の夜に)

これは渡月橋の東詰下流側にある石柱に彫られている歌です(作者不詳)。現在、小督の話に(ちな)んで、琴聞茶屋の上流側に車折(くるまざき)神社の頓宮(とんぐう)が鎮座していますが、その前に旧跡「琴聞橋」があります。ここからならば確実に琴の音は聞こえたでしょう。耳を澄まして聞くと、相府蓮(想夫恋)という曲でした。笛の名手だった仲国は、それが小督の弾く琴だと判断し、ついに小督を訪ね当てて宮中に連れ戻すことに成功したのです。この場面、「仲国尋小督図」として多くの絵が残っています。

再び帝の寵愛を得た小督は身籠り、姫(範子内親王)を出産します。しかしそれがまた清盛の逆鱗に触れ、ついに若くして出家させられてしまいました。高倉天皇も退位させられ、十九歳の若さで病のために崩御します。東山区にある清閑寺に高倉天皇陵がありますが、その東側に小督の墓と称せられるものがあり、また別に供養塔もあります。もちろん嵯峨野の法輪寺には小督経塚があり、どれが本当の墓なのかはわかっていません(みんな記念碑に過ぎないのかもしれません)。

ところで肝心の「小督塚」ですが、これもどうやら謡曲「小督」の記念碑として、江戸時代に造られたもののようです。『嵯峨日記』元禄4年(1691年)4月19日条によると、松尾芭蕉が小督塚を訪ねた際、「小督屋敷」と称するものが辺りに三か所あったと記しています。そのうちの「駒留の橋(琴聞橋)」の近くにあるのを本物と信じ、「うきふしや竹の子となる人の果て」「嵐山藪の茂りや風の筋」という句を詠んでいます。その塚は「三間屋の隣、藪の中にあり。しるしに桜を植えたり」とあって、藪の中には目印の桜が植えられていたようです(小督桜)。

「三間屋」というのは、江戸時代から有名だった料亭旅館「三軒家」のことです。そのことは谷崎潤一郎の『細雪』の中にも、

川に沿うて三軒家の前を西に行き、小督局の墓所を右に見て、あの遊覧船の発着所の前を過ぎ、

と書かれています。近代小説にもちゃんと反映されていたのです。

現在、「小督塚」に行ってみても桜はありませんし、塚自体も昔のものではありませんでした。もともとここは小督庵という料亭の一画だったのですが、料亭がなくなった後は手入れをする人もいませんでした。たまたま渋谷天外と離婚した浪花千栄子(「おちょやん」のモデル)が、この近くに竹生という料理旅館を開いていたのですが、あまりの荒廃ぶりを黙って見過ごせず、化野(あだしの)から塔を一基移して供養塔として整備しました。今ある塔は、浪花千栄子によって据えられたものだったのです。

浪花千栄子が亡くなった後、竹生も廃業となり、現在ではその所在地もわからなくなってしまいました。ただその庭には樹齢二百年の山桜が植えられており、「浪花桜」と名付けられていたそうです。「小督塚」の近くにある桜の巨木を探してみてください。なんとか嵯峨野の新名所にできないものでしょうか。

※所属・役職は掲載時のものです。