正月について

2020/12/21

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

「正月」は一月の異名ですが、古語の「睦月(むつき)」とは意味が違っています。中国では、一年の最初の月のことを指す言葉でした。つまり新年を表す表現だったのです。当然、日本でも古くから使われており、『古事記』『日本書紀』『万葉集』にも用例があります。令和の出典となった大伴旅人主催の梅花宴の序にも「天平二年正月十三日」とありましたね。

昔に遡ると、正月はお盆と対になった先祖を祀る大切な年中行事でした。それが仏教伝来に伴い、お盆は仏教的な先祖供養会の性格が強くなり、一方の正月は引き続き神道的な神祭り(年(歳)神を迎えて豊作や幸せを祈念する)へと分化されていきました。年末に大掃除をするのは、年神様を迎える準備だったのです。

正月に飾る門松(松飾り・飾り松・立て松)にしても、常緑の松の枝は年神様が降臨する目印であり、依り代として家の前の門に置かれたものだったのです。ですから平安時代は松だけだったようです。斜めに切った竹は徳川家康からだともいわれています。その門松から年神様を家の中に引き入れるわけですが、年神様の宿る場所として家の中に飾ったのが鏡餅でした。『源氏物語』初音巻は歯固め用の「餅鏡」ですから、「鏡もちゐ」の初出は『基俊集』(十二世紀)のようです。

正月につきもののお節料理も、本来は年神様にお供えするものでした。私たちはそのお下がりをいただくわけです。かまどの神様に休んでもらうために、作り置きの料理を重箱に詰めることで、めでたさが重なるという縁起物にもなっています。もちろんお年玉も、原義的にはお供えした餅に籠った魂を家長から分けてもらうことであり、お金を配るようになったのは、なんと昭和三十年以降のことだとされています。

正月も一定の期間が過ぎると、年神様に帰ってもらいます。たいていは十五日ですが、関東では七日のところもあります。その期間が松の内なのです。そうして年神様が宿っていた鏡餅を家族でお汁粉・ぜんざい・雑煮やかき餅にしていただくわけですが、「鏡」を「割る」「切る」のは縁起が悪いということで、「鏡開き」と称しています。松の内が七日の場合は十一日に、十五日の場合は二十日に行うしきたりになっています。

十五日に正月の飾りや書初めなどを燃やすのが左義長です。その煙に乗って、年神様がお帰りになるとのことです(お盆と似ていますね)。またその火で焼いた餅を食べると、無病息災で過ごせるともいわれています。そのためか大きな焚火となり、火事が増加したこともあって、最近は焚火を禁止しているところが多いようです。

ところでみなさんは「お正月」という童謡はご存じですよね。作曲は滝廉太郎で、作詞は(ひがし)くめです。くめさんは長生きで、昭和四十四年に九十一歳で亡くなっているので、なんと作詞者の著作権(七十年)はまだ当分存続します。

明治三十四年に出版された『幼稚園唱歌』に収録されている「お正月」の歌詞は、

1 もういくつ寝るとお正月 お正月には(たこ)あげて
  こまをまわして遊びましょう はやく来い来いお正月
2 もういくつねるとお正月 お正月にはまりついて
  おいばねついて遊びましょう はやく来い来いお正月

とあります。覚えていますか。歌詞をよく見ると、一番は「凧」と「こま」ですから男の子の遊びになっています。それに対して二番は「まり」と「おいばね」ですから女の子の遊びですね。「おいばね」は「追羽根」で、羽根つきのことです。この頃は男女がきちんと区別されていたことがわかります(かるた取りがないのは残念!)。現在、こんな正月風景は見られなくなりました(ゲームが主流)。

なお滝廉太郎は西洋音楽を学んだこともあって、この曲はシベリウス作曲の交響曲第一番ホ短調の第二楽章に似ているといわれています。この「お正月」はシベリウスの曲が発表された翌年に作曲されていますから、影響を受けていることは間違いなさそうです。

この「お正月」という曲が大流行したこと、毎年正月になると歌われたこともあって、いくつもの替え歌が作られています。私の子供の頃の記憶にも、餅と霊柩車が出ていました。そこで調べてみると、

もういくつねるとお正月 お正月には餅食って
喉につまらせ死んじゃった 早く来い来い霊柩車

が見つかりました。今でも餅を喉に詰まらせて亡くなる人がいるようなので、この歌詞は当時の世相を反映したパロディになっているようです。正月に縁起でもないとは思いますが、むしろ警告(注意)として受け取っておきましょう。

 

※所属・役職は掲載時のものです。