「蛙(かわず)の鳴く音も鐘の音も」─「朧月夜」再び─

2020/07/10

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

朝ドラ「エール」の再放送で、若き日の音が学芸会(竹取物語)の最後に「朧月夜」を歌ったのが印象的でしたね。唱歌「朧月夜」については前に触れましたが、迂闊(うかつ)にも二番の歌詞「蛙の鳴く音も鐘の音も」について、何もコメントしていませんでした。そこであらためて紹介することにします。

隣接しているところに、というか対句になっている「蛙の鳴く音」と「鐘の音」に同じ「音」という漢字があてられていますね(歌った音との駄洒落?)。これはどう読み分ければいいのでしょうか。はい、蛙の方は「ね」で鐘は「おと」です。ではこの読みの違いは意味の違いなのでしょうか。それとも意味の違いではなく、単なる音数(字数)合わせなのでしょうか。これがなかなか難しい問題なのです。

一般的に「おと」は不規則かつ非音楽的音声で、「ね」は韻律的音楽的音声とされています。古典を研究している私としては、もっとわかりやすく生物の鳴き声・小さな音・情緒的なものは「ね」で、無生物・大きな音・不快な雑音などは「おと」と分けたいところです。太鼓はどうしても「おと」になります。ではピアノはどっちでしょうか。

もちろん「鐘の音」は不規則ではないし、必ずしも不快なものではありません。そこで「近江八景」という曲(お手玉歌)では、「三井寺の鐘の音(ね)」という歌詞になっています。近くで聞くと騒音かもしれませんが、遠くで聞くとなかなかいいものです。

同じような例を探すと、『枕草子』初段にも、「風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず」とありました。ここでは風は「おと」で虫は「ね」と読んでいます。もちろん「風の音」は、必ずしも雑音ではありません。むしろ心地よいものです。その証拠に、

  秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(古今集169番)

の「風の音」は、強風ではなく秋の訪れを感じさせる涼風でした。

次に『源氏物語』夕霧巻には、

  虫の音も、鹿のなく音も、滝の音も、ひとつに乱れて艶なるほどなれば、(新編全集408頁)

とあって、ここでは虫と鹿は「ね」で滝は「おと」になっています。もうおわかりかと思いますが、「ね」には「哭(泣く)」の意味が含まれているようです。そのため掛詞として、鳴き声を「ね」と読むことが多いのです。ただし例外もあります。鹿の鳴き声は必ずしも「ね」ではなく、「声」とすることも少なくありません。それは「鐘の音」も同様です。『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無情の響きあり」など、「鐘の声」から深い意味(比喩)まで読み取らなければなりません。

こうなると今度は、「音」と「声」の違いは何かという問題が浮上してきます。現代の説明として、「おと」は無生物が発するもので、「こえ」は生物が発声器官を使って発声させるものと定義されています。しかしこれでは「鐘の声」の説明はつきそうもありません。そこで時代的変遷を導入してみましょう。

古典では「声」は生物だけでなく、弦楽器や打楽器にも用いられていました。こういった人間が奏でる楽器は、人間の声の一部(延長線上)と認識されていたのです。そう考えると、「ね」と「声」が重なる理由も納得できます。

これを応用すれば、感情移入できるものが「ね」で、できないものが「おと」という分類も可能かもしれません。平安時代には、そういった繊細な使い分けが確かに行われていたのですが、鎌倉時代(武家社会)以降、徐々に区別が曖昧になっていきました。「蛙」にしても、現代人は「かえる」と読むでしょうから、そうなると「かえるの鳴く音」は騒音・雑音に分類されるかもしれません。

なお近代的な脳科学の成果として、日本人が自然の音を左脳で知覚するのに対し、西洋人は右脳で知覚するという報告がありました。だから西洋人は自然の音を雑音と感じ、日本人はそれを意味のある言葉として感じるのだそうです。それは音感というより、日本人特有の美意識ともいえます。もしそうなら、日本人である以上、「おと」と「ね」の違いにもっと敏感でありたいものです。

 

※所属・役職は掲載時のものです。