「荒城の月」再び

2020/06/15

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

「荒城の月」については、以前、新島八重の「明日の夜は」歌との関連について書いたことがあります。そこでは「荒城の月」の「月」に、八重の歌に詠まれている「月」が反映されている可能性があることに言及したのですが、それ以外に出典らしきものがあることを知りました。それは有名な戦国武将・上杉謙信が作った「九月十三夜陣中作」という七言絶句です。

  霜満軍営秋気清  霜は軍営に満ちて秋気清し

  数行過雁月三更  数行の過雁、月三更    「三更」は子の刻(丑の刻に沈む)

  越山併得能州景  越山併せ得たり能州の景  「越」は越後・越前 「能」は能登

  遮莫家郷憶遠征  遮莫家郷遠征を憶う    「遮莫」はさもあらばあれ

これは謙信が天正5年(1577年)9月13日、能登の七尾城を攻め落とした時に作った漢詩です。この漢詩の一句目は、「荒城の月」の二番の歌詞「秋陣営の霜の色鳴きゆく雁の数見せて」と言葉も内容も近似していますね。そのため土井晩翠は、この漢詩を念頭に置いて作詞していると指摘されているのです。そうなると、二句目に十三夜の「月三更」があるので、必ずしも八重の歌を見なくても、「夜半の月」は描けてしまうことになります。もちろん『古今集』所収の、

白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月(191番)

にも「雁」と「月」が詠まれており、これを参考にしたかもしれません。やっぱり土井晩翠は会津若松に対してリップサービスしたのでしょうか。

それはさておき、今回は作曲の方に目を向けてみましょう。まず原曲を作曲した滝廉太郎についてです。東京音楽学校が中学唱歌にすべき歌詞を提示し、その歌詞に合う曲を公募しました。明治34年のことです。それに応募したのがまだ研究科の学生だった若き廉太郎でした。その時、廉太郎は「荒城の月」だけでなく、「箱根八里」「豊太閤」につけた曲も一緒に入選しています。その同じ年、廉太郎の代表作ともいえる「花」も作曲していました。

作曲家・ピアニスト・声楽家としての将来を嘱望されていた廉太郎は、ドイツに留学します。しかしそこで結核に罹り、中途で帰国して23歳の若さで亡くなりました。現在わかっている作品は、「花」「お正月」「雪やこんこん」など34曲にすぎません。もう少し長生きしていたら、もっとたくさんの名曲を作曲していたに違いないので、その夭折が惜しまれてなりません。

山田耕筰がこの「荒城の月」をピアノ曲に編曲したのは、大正6年(1917年)のことでした。まず原曲のロ短調をニ短調に移調しています。その際、「はなのえん」の「え」についていた「#」を削除します(半音下げました)。さらに8分音符を4分音符に置き換え、全体で8小節だったものを16小節にするなど、かなり大掛かりな修正を施していることがわかりました。

では耕筰は、何故これほどまでに廉太郎の曲に大鉈を振るったのでしょうか。それは廉太郎が、この曲の中に西洋音楽の要素を色濃く導入していたからでした。というのも、「#」を伴う原曲はジプシー音楽の特徴であり、外国人の耳にはハンガリー民謡の旋律として聞こえたそうです。

面白いことに、耕筰にこの曲の編曲を頼んだのは、国際的なオペラ歌手の三浦環でした(朝ドラ「エール」では双浦環として登場)。外国で活躍していた環ですから、「荒城の月」を純粋な日本音楽として歌いたかったのでしょう。

声楽科出身の耕筰は、東京音楽学校で環に教わった生徒の一人でした。朝ドラではかなり年配の耕筰(志村けん)になっていますが、もちろん実際には環より年下です。その三浦先生の依頼だったからこそ、耕筰は「#」のない日本的な「荒城の月」を編曲したのです。そのお蔭で「荒城の月」は、日本を代表する名曲として生まれ変わり、現在も堂々と歌われ続けているのです。「エール」で環は「荒城の月」を歌わないのでしょうか。

なおハンガリー民謡といいましたが、「荒城の月」の出だしは、メンデルスゾーン作曲の交響曲「スコットランド」の第一楽章冒頭部分と酷似しているといわれています。確認したところ、確かにそっくりでした。これは偶然の一致というより、廉太郎がドイツ留学中にメンデルスゾーンの曲に接して、感化を受けていたことに起因しているようです。もちろん盗作したわけではありません。

 

※所属・役職は掲載時のものです。