山田耕筰の偉業

2020/04/28

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

山田耕筰については、「古関裕而について」や「童謡「赤とんぼ」について」、また「七月七日はカルピスの誕生日」などのコラムで少し触れましたが、その程度ではとても語り尽くせません。また5月から耕筰役で朝ドラに登場する志村けんさんの追悼の意味を含めて、あらためて紹介することにした次第です。

山田耕筰は同志社とも無縁ではありませんでした。というのも父の山田謙造は、死期を悟ってキリスト教の伝道師になっているし、母・久も敬虔なクリスチャンだったからです。それもあって耕筰は、父が亡くなった10歳の時に巣鴨にあった自営館(後のキリスト教巣鴨教会)という施設に入居しています。

また耕筰の母の妹・かねが嫁いだのが、やはりキリスト教の牧師・大塚正心でした。その叔母の影響で、耕筰の姉・恒子は、桜井女学校(桜井ちか)さらに女子学院で教育を受け、そこで矢島楫子(徳富蘇峰の叔母)の教えを受けました。卒業後、前橋英和女学校(共愛学園)に赴任した恒子は、そこで宣教師のミス・パーミリー(元同志社女学校教師)と知り合います。後にそのパーミリーから、東洋英和学校の教師であるエドワード・ガントレットを紹介され、彼と国際結婚することになりました。

ガントレットはイギリス人宣教師・英語教師であるだけでなく、オルガニストでもありました。そのガントレットから西洋音楽を学んだことで、耕筰の音楽家への道が開かれたのです。なおガントレットは、長く本郷中央教会の初代オルガニストを務めていましたが、二代目に指名されたのが岡野貞一でした。この貞一は、後に「故郷」・「春が来た」・「春の小川」・「朧月夜」・「紅葉」などのすぐれた唱歌を作曲する耕筰のライバルの一人です。

東京音楽学校の声楽科を卒業した耕筰は、三菱財団の岩崎小弥太の援助を受け、ベルリン王位芸術アカデミーの作曲科に留学します。そこで下宿屋の娘ドロテア・シュミットとの恋愛もあったようです。帰国後、東京フィルハーモニー会を組織し、指揮を担当しますが、岩崎の紹介で永井郁子と結婚したにもかかわらず、昔なじみの村上菊尾という女性が忘れられず、遂に郁子と離婚し菊尾と結婚します。そのため岩崎の怒りを買ってしまい、資金援助を打ち切られたことで、オーケストラは解散せざるをえなくなりました。

その後、作曲家で指揮者の近衛秀麿と組んでオーケストラを編成しますが、やはり金銭的な内紛が生じて崩壊してしまいます。どうも耕筰は女性と金銭にはゆるかったようです。その後は歌曲や唱歌の作曲を手掛け、「赤とんぼ」(三木露風作詞)・「からたちの花」(北原白秋)などの名曲を次々に発表しています。北原白秋と組んだ「この道」・「砂山」・「ペチカ」・「待ちぼうけ」・「あわて床屋」などは有名ですね。

学校の校歌は、古関裕而をはるかにしのぐ数を残しています。日本大学校歌・明治大学校歌・慶應義塾大学カレッジソング・東洋大学校歌・駒澤大学校歌・東京女子大学校歌・関西大学学歌・京都女子大学校歌・龍谷大学校歌など、切りがありません。そしてここに同志社大学歌(北原白秋作詞)を加えることができるのです。

高校校歌や中学校校歌・小学校校歌まで、耕筰への依頼は殺到しています。古関が作曲した「栄冠は君に輝く」とは別に、全国高校野球選手権大会行進曲として、第21回大会から開会式入場に流されているのも耕筰が作曲したものです。

なお耕筰の本名は「耕作」でした。ところが「山田耕作」と同姓同名の人が全国に百人以上いることで、耕作が有名になればなるほど名前によるトラブルが頻発したそうです。そこで区別するために、あえて珍しい漢字の「筰」に改めました。戸籍はしばらく「耕作」のままだったのですが、後妻の菊尾と離婚して昭和31年に辻輝子と再婚した際、「耕筰」に改めたそうです。

改名のエピソードはそれだけではありません。自身が発表した「竹かんむりの由来」によれば、指揮している耕筰の後頭部の髪が乱れていたので、友人の颯田(さつた)琴次(東大教授)からカツラをつけろといわれました。かつらが嫌だった耕筰は、なんと思いきって丸坊主にしたそうです。もともと髪の毛は薄かったようですが、自分の名前にかつらをつけることをひらめき、「作」に「竹かんむり」をつけたというのです。「竹」はカタカナの「ケケ」(毛毛)だから毛が増えたという遊び心でした。ちょっと眉唾くさい話ですね。

ここに謹んで志村けんさんのご冥福をお祈りします。

 

※所属・役職は掲載時のものです。