古関裕而について─朝ドラを楽しむために─

2020/04/08

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

古関裕而については、前著『古典歳時記』の「蛍の光変奏曲」で少し触れましたが、ちょうど今NHKの朝ドラ「エール」(窪田正孝主演)が放送されているので、あらためて取り上げてみました。なお私が最初に古関のことを知ったのは、フジテレビの「オールスター家族対抗歌合戦」(1972年~1984年)という番組です。萩本欣一が司会で、審査委員長をしていたのが古関だったのです。

さて朝ドラの初回では、東京五輪の「オリンピック・マーチ」が演奏されましたね。でも彼のレパートリーはそんなものではありません。古関は行進曲だけでなく、応援歌も得意でした。プロ野球・阪神タイガースの球団歌も、そしてあの「六甲おろし」も作曲しています。古関は特定の球団に肩入れすることなく、読売ジャイアンツの「闘魂こめて」も、中日ドラゴンズの「ドラゴンズの歌」も手掛けています。なんと夏の全国高等学校野球選手権大会(甲子園)の「栄冠は君に輝く」も古関の作曲でした。

私立大学の応援歌を依頼されることも多かったようです。そこでも分け隔てなく作曲しています。早稲田大学の「紺碧の空」、慶応義塾大学の「我ぞ覇者」、中央大学の「ああ中央の若き日に」、名城大学の「真澄の空に」など、数え上げれば切りがありません。小中高の校歌も依頼されています。軍歌や歌謡曲・映画音楽などもたくさん手掛けており、「長崎の鐘」(サトウハチロー作詩)や映画「ひめゆりの塔」の主題歌、そして極めつけは、NHKラジオドラマ「君の名は」(菊田一夫作詞)の主題歌作曲もあげられます。映画「モスラ」の歌もそうです。生涯に五千曲以上作曲したといわれています。

朝ドラで、古関は古山裕一という名になっていますが、将来奥さんになる歌手志望の関内音(内山金子(きんこ))も早々と登場していましたね。ただし金子は愛知県豊橋市在住でしたから、川俣の教会で讃美歌を歌うというのは完全な創作でしょう。二人の出会いは、昭和4年に古関がイギリスの作曲コンクールに舞踏組曲『竹取物語』を応募し、それが入賞したことが新聞で報道された時でした(日本人初入賞)。その記事を読んだ金子が、すぐに古関に熱烈なファンレターを送ったことから文通が始まり、その3ヵ月後にはスピード結婚したのです。古関20歳、金子18歳のことでした。金子はソプラノ歌手として有望でしたが、三人の子育てに忙殺されたこともあり、歌手への道は遠のいてしまいました。

お金持ちのお坊ちゃまという設定の佐藤久志(伊藤久男)は、古関より1歳年下でした。若い頃はピアニスト志望でしたが、後にバリトン歌手としてデビューします。そして古関作曲の「露営の歌」・「暁に祈る」(野村俊夫作詞)・「イヨマンテの夜」(菊田一夫作詞)・「君いとしき人よ」(菊田一夫作詞)など、次々とヒット曲を歌いこなします(紅白に十一回出場)。最初に「栄冠は君に輝く」を独唱したのも伊藤でした。テノール歌手・藤山一郎も負けてはいません。「白鳥の歌」(若山牧水作詞)・「長崎の鐘」・「ニコライの鐘」など、古関の曲をたくさん歌っています。伊藤と藤山というすばらしい歌手がいたことも、古関にとっては幸いでした。

最初いじめっ子として登場したガキ大将の村野鉄男(鈴木喜八、後に野村俊夫)は、実は古関より4歳も年上なのですが、朝ドラでは無理に同級生に設定しています。でも『古今集』を落としたあたりから、もう怪しいですよね。彼は後に福島民友社の記者になりますが、好きな作詩がやめられませんでした。「福島行進曲」を作詩して、それに古関が曲を付けたのが、彼のデビュー作となります。

野村作詞としては、他に「湯の町エレジー」(古賀政男作曲)・「あゝ紅の血は燃ゆる」(学徒動員の歌)・「上海夜曲」などがあります。古賀政男と組んだ「青いガス燈」・「湖畔のギター」・「怒涛の男」・「慕情の街」も見逃せません。また「ほんとにほんとにご苦労ね」は、後にドリフターズが替え歌を歌ったことでも知られています。福島のご当地ソングとして、「福島音頭」・「ふくしま小唄」・「二本松少年隊」・「故郷はいつも瞼に」・「あゝ鶴ヶ城」なども手掛けています。

こうして古関(福島市)・伊藤(本宮市)・野村(福島市)の三人は、「福島の三羽ガラス」と称されるようになりました。それもあっての朝ドラ同級生だったのです。ついでに、中学生の時に歌った「高原列車は行く」も古関の作曲ですが、作詞したのはやはり福島(田村郡)出身の丘灯至夫(としお)でした(代表作は「高校三年生」)。この歌は福島の風景だったのです。

最後にもう一人、絶対に忘れてはならない人がいます。それは大作曲家・山田耕筰です。朝ドラでは小山田耕三という名で登場するはずです。これが先日コロナウィルスに感染して亡くなった志村けんの最後の役となりました。古関は学生時代から山田耕筰に憧れを抱き、自作の曲を郵送するなどして文通を続けていました。朝ドラで裕一が熱心に読んでいた本は、彼の著した『簡易作曲法』だったと思われます。それもあって上京した古関は、コロンビア専属の作曲家に迎えられ、ここから作曲家として大活躍することになるのです。

もちろん古関裕而が選ばれたのは、東北震災から10年目の節目にあたって、もう一度福島を応援したい(エールを送りたい)という気持からでした。たまたま日本中に新型コロナウィルスが蔓延している時期なので、それも含めて「エール」から元気をもらってみんなで困難に立ち向かいましょう。

 

※所属・役職は掲載時のものです。