謎だらけの「イチョウ」

2019/11/12

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

京都御苑の北側・今出川御門の横にイチョウの大木があります。毎年秋になると、緑の葉が一斉に黄色く色付き、そしてあっという間に落葉します。イチョウが散る様子を女流歌人の与謝野晶子は、

金色の小さき鳥のかたちしていちょう散るなり夕日の丘に(岡の夕に)

と詠んでいますが、見事なたとえですね。これを見ると、イチョウは歌にたくさん詠まれているような錯覚に陥りますが、調べてみると古典では『万葉集』以下の勅撰和歌集に詠まれていないどころか、『枕草子』や『源氏物語』などの散文にも一切描かれていないことがわかりました。近代文学に至って、ようやくイチョウが出てきますが、どうやらイチョウを最も多く歌に詠んだのが与謝野晶子だったようです。

ではどうして古典にイチョウは登場しないのでしょうか。決して別名で呼ばれていたのではありません。その答の一つは、日本にイチョウがなかったからというものです(外来種)。イチョウが日本になければ、文学に書きようもありません。それに関連して気になるのは、一体いつごろ日本に伝来したのかということです。全国各地にイチョウの大木が百本以上もあって、樹齢七百年は当たり前、千年を超えるといわれているものも複数あるようです。ただしほとんどは伝承であって、年輪からきちんと確認された例はありません。

もし樹齢千年が本当だとすると、当然平安時代には存在していたことになります。七百年前でも鎌倉時代ですから、必然的に平安から鎌倉にかけて日本に伝来したという説は根強いようです。それに関連して、1219年2月13日、三代将軍源実朝が鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝した折、石段のイチョウの木の陰に隠れていた甥の公暁によって暗殺されたという説話が知られています。

その由緒ある鶴岡八幡宮の大イチョウが、平成22年3月10日の強風で根本から折れてしまいました。ただし幹の胴回りは七メートルしかなく、到底樹齢千年には達しそうもありませんでした。そもそも『愚管抄』などの古い記録にはイチョウが登場していません。この話にイチョウが付加されるのは、江戸時代になってからのことでした。ですから実朝の一件は、イチョウ伝来の資料としては使えそうもないのです。

実は原産地とされる中国でさえ、「鴨脚」として文献に登場するのは11世紀に入ってからでした。仮に日本のイチョウの樹齢千年が本当なら、中国より古いことになってしまいます。かくして樹齢千年というのは、科学的な根拠のない幻想・伝承になります。

現在、総合的な調査で判明していることは、イチョウに関する資料は室町時代以降にしかないという事実です。それによればイチョウは、1400年代に「銀杏」として日本に定着したことになります。その用途は、一つには薬用であり一つには食用でした。また江戸時代の版本を購入した際、よくイチョウの葉が栞のように挟んでありますが、それは防虫効果が信じられていたからでしょう。最近の調査によれば、葉に含まれるシキミ酸を紙魚が嫌うということが報告されています。

銀杏の実は焼いて食べれば美味しいですね。ですが生で食べたり一度にたくさん食べるのは体に悪いとされているので注意しましょう。なおイチョウの植物学的特長の一つとして、実がなるためには雌雄の株が必要であること、また芽が出てから実がなるまでに30年以上もかかることがあげられます。「桃栗三年」どころの話ではありません。ですから最初は樹木として銀杏と呼ばれたのでしょう。数十年経ってその木に実がなると、今度は木よりも実の方を銀杏と称するようになったと考えられます。つまり同じ銀杏という漢字ですが、木は「イチョウ」と呼び、実は「ぎんなん」と読んで使い分けられたというわけです。

ついでながら中国名の「鴨脚」は、葉が鴨(アヒル)の水かきの付いた足に似ていることからの命名のようです。また「公孫樹」という別称は、植えてから孫の代になってようやく実を付けることによるそうです。

イチョウが古典文学に登場しない植物であったこと、おわかりいただけましたか。

 

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