津波と「稲むらの火」

2019/10/23

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

国際語というか、世界で通用する日本語を知っていますか。たとえば「カラオケ」「もったいない」「おもてなし」などがあげられますが、「津波(tsunami)」もその一つです。ではどのような経緯で「津波」が世界中に知れ渡ったのか、不思議に思って調べてみたところ、すぐにラフカディオ・ハーン(小泉八雲(やくも))という作家の存在が浮上してきました。

ではここで質問です。みなさんは「稲むらの火」というお話をご存じでしょうか。これは江戸時代末期の安政元年(1854年)12月24日に起こった「安政南海地震」によって発生した大津波を元にしたお話です。地震の後に押し寄せてきた津波から広村(現在の和歌山県広川町)の村民を守るため、庄屋の五兵衛さん(浜口儀兵衛(梧陵))が刈り取った稲の束に火をつけ、それによって村民を高台にある庄屋さんのところに集めたことで、津波から村民の命を守ったというお話です。

私は、この話は当然日本人によって書かれたものだとばかり思っていました。ところがなんと原作はラフカディオ・ハーンによって英語で書かれたものだったのです。そもそも小泉八雲は、明治29年(1896年)に三陸海岸を襲った大津波のニュースを知ったことで、かねて伝え聞いていた浜口儀兵衛の逸話を重ね合わせて、感動的な話に仕立て上げました。それが「A Living God(生き神様)」という英文の短編でした。その中に「tsunami」という言葉が用いられているのです。この話が世界中に発信されたことで、「tsunami」が世界中に広まったというわけです。これが第一段階です。

もっとも小泉八雲の作品に「稲むらの火」というタイトルは付いていません。これはまた別のルートが考えられます。和歌山出身の中井常蔵(つねぞう)という人は、師範学校の英語の授業で八雲の短編集を教科書として学びました。その中に「A LIVING GOD」が含まれていたのです。その後小学校の教師となった中井は、昭和9年(1934年)に文部省が国語読本の教材を公募した際、感銘を受けた「A LIVING GOD」を日本語に翻訳し、さらに子供向けにわかりやすい文章にして応募しました。その時のタイトルが「燃ゆる稲むら」でした。ちょっと近づきましたね。それが入選して小学五年生用の国語読本に掲載された際、タイトルが「稲むらの火」となったのです。この教材は昭和12年から22年まで10年間教科書に掲載され続けました。

その間、昭和19年(1944年)には昭和東南海地震が、昭和21年には昭和南海地震が勃発しています。それは安政南海地震から90年後のことでした。「天災は忘れたころにやってくる」という言葉通り、地震や津波は周期的に繰り返すものなのです。幸い広村は、浜口儀兵衛が資材を投じて築いた広村堤防によって、甚大な被害からまぬがれました。八雲はその儀兵衛を「生き神様」と称しましたが、儀兵衛の本当の偉さは、将来の津波に備えて防潮堤を築いたことにあったといえます。

浜口儀兵衛はただの庄屋さんではありません。和歌山は醤油の産地として有名ですね。実は儀兵衛は千葉県銚子にあるヤマサ醤油の七代目当主でした。その醤油業で得た利益をすべて投げうって、村民に日当を払って作業に従事させ、四年がかりで堤防を作り上げました。その日当のお蔭で離村する人も少なかったとのことです。

この「稲むらの火」が防災の教材として知れ渡ったこともあって、平成23年(2011年)に11月5日が「津波防災の日」に制定されました。かつて儀兵衛が稲むらに火をつけた12月24日を、新暦に換算すると11月5日になるからです。

実はその年の3月11日には東日本大震災が勃発しているので、3月11日も有力な候補日でした。ただし「震災の日」ではなく「防災の日」ということで、最終的には11月5日が選ばれました。もし「稲むらの火」の教訓がその時まで教科書で教えられていれば、津波による被害はもっと減らせたのにという思いが込められているのです。その後、平成27年(2015年)に、11月5日が改めて「世界津波の日」に制定されました。日本で「稲むらの火」を何カ国もの外国語に翻訳し、世界中に配布する運動が続けられたことで、「津波」は世界共通語になったというわけです。これが第二段階になります。

今回は「稲むらの火」が小泉八雲の書いた英文の短編を翻訳したものであること、それが小学校の教科書に掲載されたこと、その縁で来る11月5日が津波防災の日になったこと、その日がさらに世界津波の日に制定されたことで、「津波」が世界共通語になったことをお話しました。是非一度「稲むらの火」を読んでみてください。

 

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稲むらの火祭り(写真提供:広川町)

※所属・役職は掲載時のものです。