八月十六日は大文字送り火

2019/08/09

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

京都の「大文字」は旧暦では七月十六日の行事でした。新暦になって一ヶ月遅れで行なわれるようになりました。今回は「大文字」のことについて勉強してみましょう。まずは「大文字」を含む五山の送り火から質問です。「京都五山」と「五山の送り火」の「五山」について、それが違っていることをご存じですか。もし同じだと思っていたら、今すぐ覚えなおしてください。

京都五山というのは、臨済宗の格の高いお寺のことです。南禅寺を別格として、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の五つ(計六つですが)を指します。それに対して五山の送り火は、東山の奥(北)にある大文字山(大文字)・松ヶ崎にある西山と東山(妙法)・西賀茂にある船山(舟形)・金閣寺の裏にある左大文字山(左大文字)・嵯峨野にある曼荼羅山(鳥居形)の五つの山で行なわれる送り火の総称です。

このうち二番目の妙法は、東山と西山の二つの山にそれぞれ「妙」と「法」が焚かれますが、合わせて「妙法」とされています。これは日蓮宗のお題目の一部です。三番目の舟形は、舳先(へさき)が西を向いていますから、先祖の魂を西方浄土に送り届ける船ということになります。四番目の左大文字は、後からできたもののようで、大文字と区別するために「左」が冠されています。五番目の鳥居形は奇妙で、仏教ではなく神道用語ですよね。これは愛宕神社の一の鳥居を象徴しており、かつての神仏習合が残っていることがうかがえます。五山といっても、必ずしも仏教にも宗派にもこだわっていないのです。なお昔は五山以外に「い」「一」「長刀」「蛇」「竹の先に鈴」などの送り火もあったそうですが、いつの間にか途絶えてしまいました。

この中でリーダー格の送り火が大文字ということで、午後八時に最初に点火されます。「大」の字の一画目の「一」の長さが八十メートルですから、それで全体の大きさが察せられます。なおこの大文字はかなり北向きになっています。そのため南側から見ると左側の火床が見えず、アルファベットの「K」の字に見えてしまうことから、俗に「K文字」とも称されているそうです。

次に送り火ですが、これがお盆(盂蘭盆会(うらぼんえ))の行事であることはおわかりですよね。全国的に有名なのが、長崎の精霊流(しょうろうなが)しと京都の大文字というわけです。もちろん京都でも小さな精霊流しは行なわれています。

お盆には地獄の釜の蓋が開くというか、この世と冥界との出入り口が開くとされており、その時期だけご先祖様の霊が戻ってくると信じられています。そこでまず十三日に「迎え火」を焚き、お供え物をします。胡瓜で作る馬は早く戻って来てほしいため、茄子で作る牛は遅く帰ってほしいためと言われています。

京都で冥界と通じる道があるとされているのは、建仁寺の東南にある六道珍皇寺です。鳥辺野(火葬場)の手前に位置していたことから、そこで野辺の送りが行なわれていたのでしょう。それに加えて小野篁が、井戸の通路から夜な夜な冥界へ通っていたという説話があり、いつしか冥界への出入り口とされたようです。珍皇寺では八月七日から十日まで六道さん詣りと称して、先祖の霊を招く「迎え鐘」を撞きに来る人の列が絶えません。

お盆は十三日から十五日までの三日間ですから、最終日の夜に送り火を焚くところも少なくありません(奈良の大文字は十五日)。ただし大文字は個人的な送り火ではないので、盆明けの十六日に盛大に行なわれているのです(かなり観光化している?)。

では大文字はいつごろから始まったのでしょうか。残念ながら古い資料は残っていません。残っているのはほとんど江戸時代以降のものです。それはこの行事が貴族や寺院主導で行なわれたのではなく、庶民主導で行なわれていたからです。遡っても室町時代あたりからと考えられます。

後に起源神話が要請されると、弘法大師空海が始めたとか、足利義政が急死した息子義尚の冥福を祈るために始めたという説が浮上してきました。それに連動して、大の字は空海の書いたものだとか、義政が横川景三に書かせたとか、近衛信尹(のぶただ)の筆跡だとかいわれていますが、その中では、大文字山の麓に銀閣寺があること、相国寺から見て大文字が正面に見えることを含めて、義政との関わりが一番深いことだけは確かなようです。

次の質問です。大文字は何故「大」の字なのでしょうか。これも諸説あって正解はわかりません。有力なのは、先端が五つに分かれているのは五芒星(星形)であり、魔除けの役割を果たしているという説です。それもあってか翌十七日の早朝、大文字山に登る人が少なくありません。大文字の燃えかす(消し炭)は、無病息災・厄祓いのご利益があるらしく、それをもらってお守りにするのです。

 

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