「君が代」の歴史的変遷

2019/07/05

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

日本の国歌に制定されている「君が代」について、みなさんはどの程度のことをご存じですか。ここでその歴史を少しばかりたどってみましょう。まず出典ですが、一番近いのは『古今集』賀の巻頭にある、

我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで(343番)

です。これは題知らず・読人知らずの歌ですが、年賀に天皇の長寿を讃美・祝福したものと考えてよさそうです。なお初句は「我が君は」とあり、「君が代」という本文異同は認められません。

この歌は、以後いろんな歌集に再録されます。その一つが『和漢朗詠集』ですが、その鎌倉時代の写本に初めて「君が代は」本文が登場していますが、主流は依然として「我が君は」でした。それが江戸時代になると、狭義的・主観的な「我が君は」より広義的・客観的な「君が代は」の方が使い勝手がよいということで、広く流布していきました。この「我が君は」から「君が代は」への変遷をまず押さえてください。

話変わって明治維新の後、日本に国際化の波が押し寄せてきます。そうなると対外的な外交儀礼の上で、どうしても国歌のようなものが必要になってきます。最初は薩摩(鹿児島)という小さな世界でのことでした。当時薩摩に来ていたイギリス歩兵隊の軍楽隊から、日本を代表するような曲はないかと打診されたことがきっかけだったようです。それまで日本は国歌を持っていなかったし、持つ必要性も感じていませんでした。

そこで当時、薩摩の歩兵隊長を勤めていた大山弥助(巌)は、自ら愛唱していた薩摩琵琶の「蓬莱山」という曲の一部である「君が代」を推薦しました。「君が代」が国歌となる道筋を付けたのは大山巌ということになります。その歌詞にイギリス陸軍の軍楽隊長フェンライトが曲を付けたのが最初の「君が代」でした。それは明治3年のことです。しかし歌詞と曲がしっくりしていないので、改めて雅楽課に作曲の依頼がありました。

雅楽課の奥好義が日本古来の旋律をもとにまとめたものを、上司の林広守が補作して曲として完成させ、明治13年に演奏しています。これが現在の「君が代」の始まりとされているものです。それもあって「君が代」の作曲者を林広守としているものもあります。これに洋学の和声を付けたのは、ドイツ人のフランツ・エッケルトです。

これを国歌として扱うこともありましたが、きちんと制定されないまま長く運用されてきました。オリンピックなどのスポーツ競技の優勝者を称える際、あるいは小中学校で式典が行なわれる際に歌われてきました。ところが第二次世界大戦における軍国主義に対する反省、加えて新憲法で天皇が国の象徴とされたことから、学校で君が代を斉唱する事の是非が激しく議論されました。その際、「君が代」に代わる新たな国民歌制定の運動もありました。

最終的には国旗及び国歌に関する法律によって、ようやく「君が代」は日本の国歌と制定されました。それは平成11年8月のことでした(公布日である8月13日が「君が代」記念日)。ついでながら歌詞が一番しかない「君が代」は、世界で最も短い国歌の一つともいわれています。

※所属・役職は掲載時のものです。