「都鳥」幻想

2019/06/06

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

『伊勢物語』第9段は東下り章段といわれる有名なお話です。その最後(3番目)の話に「都鳥」が登場しています。昔男の一行は、墨田川を渡る途中で見慣れぬ鳥を見つけました。その時の第一印象として「京には見えぬ鳥」とあります。だからこそ同じく見知っていないであろう京都の読者に対して、「白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる」と具体的に鳥の大きさや色を説明しているのです。

『伊勢物語』は都の美意識(みやび)が基準となっている作品です。この都鳥の前には雪をかぶった富士山が登場していましたが、そこでも「京」で見慣れた比叡山が富士山の形を推し量る判断基準(物差し)になっていました。

さて、昔男が地元(田舎)の渡し守(船頭)に鳥の名を尋ねたところ、「これなむ都鳥」という答えが返ってきます。このぶっきらぼうな物言いは、その裏に「都鳥もしらない田舎者め」という侮蔑の気持さえ感じられます。京都から来た昔男一行が知らないのに、言い換えれば都にいない鳥なのに、「都鳥」という名を持つ鳥が東国(田舎)にいるのは奇妙なことですね。あるいはかつて京都から流れてきた人が、都を懐かしんでそう命名したのかもしれません。だからこそその名を耳にすることで、望京の思いが誘発されるのではないでしょうか。

昔男は自ら京を捨てて東下りに出立した(反貴族的行動)にもかかわらず、鳥の名に触発されて思わず「名にしおはば」という歌を詠みあげてしまいます。その歌はもちろん「都鳥」には通じません。心を揺さぶられるのは、昔男と同じ境遇にいる友人達です。その結果、「舟こぞりて泣きにけり」という状況になりました。ただしそこに船頭が含まれるかどうかは微妙です。ここでの涙は共感の証しだからです。結局、昔男の旅は、京都以外では住めないことを確認するための、後ろ向きの旅でしかなかったことがわかります。

ここで重要な役割を果たしている「都鳥」ですが、なるほどかつては京都では見かけない鳥でした。ところが異常気象のせいか、1974年以降、琵琶湖から鴨川に飛来するようになりました。最近では餌付けされ、むしろ京都の風物詩になっているようなありさまです。

それはやむをえないのかもしれませんが、『伊勢物語』を愛好する者としては、いつまでも「京には見えぬ鳥」であってほしい、そして私がそうしたように、わざわざ上京して隅田川のほとりで「都鳥」を見てほしいと願っています。古典読解にはそういった手続きも必要なのです。

ところでこの「都鳥」はチドリ目カモメ科カモメ属の「ゆりかもめ」で、カモメ属の中では比較的小さい方です。本来は冬にカムチャッカから渡ってくる鳥とされています。夏毛になると頭部が黒くなるので、『伊勢物語』の都鳥は北に帰る(夏毛になる)前の時期かと思われます。

これで何の問題もなさそうですが、江戸時代の貝原益軒が『大和本草』の中に、『伊勢物語』の「都鳥」はチドリ目ミヤコドリ科の都鳥だと書いたことから、都鳥論争が生じてしまいました。なんと江戸時代には都鳥という名の鳥が他に存在していたのです。もっともミヤコドリ科の都鳥は頭部や背中が黒いので、『伊勢物語』の記述にあてはまりそうもありません。ということで、現在はほぼ「ゆりかもめ」のこととされているのです。

ついでながら古代において、「都鳥」はほとんど文学に登場しませんでした。京都にいない鳥ですから当然ですよね。だからこそ誤解も生じたのでしょう。唯一『万葉集』に大伴家持が、

舟ぎほふ堀江の川の水際に来居つつ鳴くは都鳥かも(四四六二番)

という歌を残しています。これが「都鳥」の初出例です。これは難波(大阪)の堀江で詠まれたものですから、『伊勢物語』とは齟齬しません。

さて歌には「鳴く」とあるだけで、色も形も大きさもわかりません。その違いは「水際に来居つつ」か「水の上に遊びつつ魚を食ふ」か、「鳴く」か「鳴かない」かです。これを根拠に、家持の歌はミヤコドリ科の都鳥と見る説もあります。ただし謡曲「隅田川」では、『伊勢物語』と『万葉集』が巧みに融合されることで、ともに「ゆりかもめ」のこととされています。都鳥の正体は今もって謎を含んでいるといえます。

 

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