梅花の歌宴を文学的に読む(「令和」の二重構造)

2019/04/23

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

先に「令和」の出典となった『万葉集』の梅花の歌の序について説明しましたが、それだけではまだ不十分でした。というのも、序はもっと大きな括りの中に含まれるものだからです。そもそも文学というのは、一部を切り取った時の解釈と、作品全体から見た解釈では大きく異なる場合があります。ですからここも巨視的に見ておく必要があります。

まず『万葉集』巻五の目録(目次)を見ると、

大宰帥大伴旅人卿の宅にして宴する梅花の歌三十二首于并せて序

に続いて、

故郷を思ふ歌二首

後に梅花の歌に追和する四首

が附随しており、この三項目で一つのまとまりになっています。さらに続いて、

松浦川に遊ぶ贈答歌二首并せて序

蓬客等の更に贈る歌三首

娘等が更に報ふる歌三首

帥大伴卿の追和する歌三首

が掲載されています。内容は梅花の歌と別なのですが、これだけのものが一括され、大伴旅人から都にいる吉田連(よろし)(帰化人・医師)に私信を添えて送り届けられているのです。そのことは、これに続いて旅人に応えた宜の返歌が続いていることからわかります。

吉田連宜、梅花の歌に和ふる一首

吉田連宜、松浦の仙媛に和ふる一首

吉田連宜、君を思ふこと未だ尽きず、重ねて題す歌二首

ということで、「令和」を総合的に考えるためには、該当する序だけでなくこれだけのものを総合して考える必要があるのです。そこですぐ目にとまったのが、「故郷を思ふ歌」でした。この「故郷」は旅人の生れ故郷という意味ではなく、平城京(都)のことです。そのことは歌の中に「都見ば」(八四八番)とあることからも察せられます。

それと関連する記述が宜の返書の中に、

辺城に羈旅し、古旧を懐ひて志を傷ましめ、年矢停まらず、平生を憶ひて涙を落とす。

と書かれています。これを現代語訳すると、

僻地にある大宰府に旅寝し、過去を懐かしんでは心を痛め、年月はさっさと去っていき、若かりし頃を偲んでは涙を流している。

となります。ここで大宰府は「辺城」(僻地)ととらえられているのです。続く「古旧を懐ひて」には、亡くなった旅人の妻(大伴郎女)に対する悲しみが暗示されています。

旅人からの私信には、梅花の歌には表出されていない私的な気持ちが吐露されていたようです。そこに脚色もあったでしょうが、少なくとも陽気な梅花の宴とは異なる旅人の悲痛な望郷の念が綴られていたことが、この宜の返書から察せられます。

それに加えてもっと考えるべきことがあります。それは旅人の文学的虚構です。そもそもこの梅花の宴は、満開の梅の元で催されたように見えますが、主の旅人は、

我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れくるかも(八二二番)

と散る花を詠じています(落梅の篇)。決してこれから咲く花を詠じているわけではなかったのです。それに続く大伴百代(大伴一族の一人)など、

梅の花散らくはいづくしかすがにこの()の山に雪は降りつつ(八二三番)

と詠じており、散る花どころかまだ梅は咲いておらず、大野山には雪が降っていると現実を暴露しています。もちろんこれは雪を白梅に見立てたレトリックとも考えられますが、陰暦正月十三日では梅の満開時期としては早すぎるという説もあります。

そうなると、この宴会そのものが文学的虚構であり、必ずしも三十二人が集って宴会を催していたのではなく、題詠として梅の和歌だけが届けられた可能性もあります。山上憶良の歌など「梅の花ひとり見つつや」(八一八番)とあって自宅の梅を詠んでいるようですし、小野国堅は「妹が家に」(八四四番)と恋人の家の梅を詠じており、旅人邸の梅花の宴とはずれが生じているからです。

旅人が何故そんなことをしたのかといえば、それは私的な妻の死の悲しみなどでは説明できません。もっと大きな事件が都で起こっていることと無縁ではなかったようです。まずこの梅花の歌宴の直前(天平元年)、旅人は都にいる藤原房前に桐の大和琴を贈っています(八一〇~八一二番)。何故旅人は唐突に房前に贈り物をしているのでしょうか。

そこで歴史年表を紐解いてみると、天平元年(七二九年)の二月に忌まわしい長屋王の変が勃発し、関係者がきびしく処罰されていることがわかりました。その長屋王と旅人は親しい間柄だったのです。もしこの時、軍事力を有する旅人が都にいたらどうなっていたでしょうか。ひょっとすると旅人が帥に任ぜられたのは、長屋王排斥を目論む藤原氏の深慮遠謀だったのかもしれません。

遠い大宰府の地で長屋王の悲劇を聞き知った旅人は、一体何を思ったのでしょうか。こうなった以上、大伴一族に類が及ばないようにしたい、と思ったとしても不思議はありません。大和琴の贈与は、旅人に反抗心がないことを藤原氏に表明するために行なわれたとも考えられます。そういった都の大事件を背景にしつつ、大宰府では何事もなかったかのように梅花の宴が表向きのどかに開催されていたと記録されているのです。

ここまで視野を拡げることで、ようやく「令和」の複雑さというか表と裏の内実(現実と希望)がほの見えてきます。そこにこそ元号を古典文学から採用したことの意義があるのです。

 

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