近衛の糸桜

2019/03/18

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

毎年3月下旬、京都御苑は京都市民の桜の名所となって賑わっています。特に近衛邸跡の池のほとりの糸桜は、「近衛の糸桜」として江戸時代から有名なものでした。「糸桜」というのは一重の枝垂桜の別称だそうですが、ソメイヨシノよりも早く小ぶりの花を咲かせて、春の訪れを実感させてくれます。私は今出川通りに面した冷泉家の通用門にある早咲きの桜を目印にしており、これが咲いたら近衛の糸桜も見頃かなと判断しています。

その糸桜には2つの問題があります。1つは近衛邸に場所の変遷があって、それに伴い糸桜がどこに植わっていたのかはっきりしないということです。御苑にあったのは、天正頃に豊臣秀吉によって移転させられた「下之御所」と称される新しい邸で、それ以前の古い「上之御所」は同志社大学新町キャンパスの辺りにあったそうです。その名残が近衛殿表町という町名に認められます。謡曲「西行桜」に「近衛殿の糸桜」と讃えられているのは、恐らく上之御所に植えられていたものでしょう。『洛中洛外図屏風』歴博甲本でも、上之御所の位置に糸桜が描かれています。

2つ目は、糸桜を詠んだ和歌の出典についてです。糸桜の説明の中にしばしば、

春の雨にいと繰かけて庭のおもは乱れあひたる花の色かな

という和歌が引用されていますが、長らく出典未詳とされていました。それがようやくわかったのです。

文禄3年(1594年)に勅勘を蒙り、薩摩に配流されていた近衛信尹ですが、文禄5年に許されて薩摩から帰京します。それに阿蘇神社の神官・阿蘇玄与が随行し、『阿蘇墨斎玄与近衛信輔公供奉上京日記』を書き残しています。その日記の慶長2年(1597年)2月5日条に、

近衛様糸桜御所にて御連歌興行并御当座の歌有

とあり、「糸桜御所」という表記が用いられています。また翌6日条にも、

近衛様糸桜の亭にて、かしら字を置て御当座有

と、今度は「糸桜亭」と記されています。この時期まだ糸桜は開花していないようですが、「近衛の糸桜」が夙に有名であったことが察せられます。これは下之御所のことでしょうか。

同月22日条になってようやく、

同日、雨に糸桜をよみ侍る

春雨のいと繰かけて庭のおもは乱れあひたる花の色かな  玄与

咲出んみぎりの花の盛をも松のときわに習へとぞ思ふ  同

と、玄与が糸桜を歌に詠じています。この頃に咲いたのでしょう(「繰り」「乱れ」は「糸」の縁語)。その玄与の歌に対して信尹も、

咲けば散る花にはあれど今年より松の常盤にならひてしがな

と返歌しています。ここで詠まれた「春雨の」歌こそは、これまで誰がいつ詠んだのか不明とされていた和歌の原点と見て間違いなさそうです。

なおもう1首、糸桜を詠んだ有名な和歌があります。下って安政2年(1855年)2月に、孝明天皇が近衛邸に行幸されて糸桜をご覧になった際、

昔より名には聞けども今日見ればむべ目かれせぬ糸桜かな

と詠じられました。「目かれせぬ」とは、目が離せないほど美しいという意味です。「昔より名には聞けども」とあることから、やはり糸桜が名高かったこと、孝明天皇がこの時初めてご覧になったことが察せられます。孝明天皇の目にも糸桜はさぞ美しく映ったことでしょう。そのため孝明天皇は「詠糸桜和歌巻」に31首の和歌を残しています。「昔より」歌はその冒頭に詠まれているものです。

ここで孝明天皇が御覧になった糸桜は、時代的に考えて下之御所(御苑内)のものだと思われます。ただし昭和になって古い糸桜は枯れてしまい、現在見られる桜は昭和10年に移植した桜だそうです。江戸時代の桜ではありませんが、それでも十分堪能できます。

 

 

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