学びのルーツ

2015/02/13

■看護学部の原点 京都看病婦学校と同志社病院

京都看病婦学校に関する出来事

■京都看病婦学校の設立


京都看病婦学校と同志社病院は、1886(明治19)年9月に同志社の創立者である新島襄が設立した、日本で二番目の看護婦養成機関です。
初年度の入学者は5名。開校当初は仮の施設として、デイヴィス邸で授業が行われましたが、翌年の1887(明治20)年夏には病院・学校の建物が竣工、京都府から正式な許可を受け、11月に盛大な開院・開校式が行われました。

ジョン・ベリーとリンダ・リチャーズ

 

場所は京都御所の蛤御門の向かい側の辺りです。襄は医学校設立を望んでおり、当時神戸や岡山で医療・医学指導にあたっていた宣教医ジョン・ベリー(John Cutting Berry, 1847-1936)に協力を仰ぎ、その計画をすすめました。しかし、資金面の問題やアメリカン・ボードの意向により、看病婦学校と病院設立に方針が修正されたのでした。
看護教育の責任者として招かれたのが、「America's First Trained Nurse」(アメリカで最初に近代看護教育を受けた有資格看護婦)と称されたリンダ・リチャーズ(Melinda Ann Judson Richards, 1841‐1930)です。リチャーズはイギリスでナイチンゲールから直接近代看護を学び、アメリカでも看護教育の先駆者として知られています。1886年1月に来日して約5年間、京都看病婦学校において日本の看護教育のために尽力しました。

■京都看病婦学校が果たした役割

佐伯理一郎と不破ユウ
新しい学校と病院への期待は大きく、開院・開校式に出席した人は550人にのぼりました。当時、同志社病院は療病院(現在の京都府立医科大学・同附属病院)に次ぐ規模の病院であり、京都看病婦学校は当時の欧米での最新の看護教育プログラムと教育施設を備えた看護婦養成機関でした。卒業生のなかからは、不破ユウ(京都大学医学部附属病院の初代看護婦長(現・看護部長))を始め、日本の近代看護を担う多くの人々が輩出されました。
「京都看病婦学校設立趣旨」のなかで、設立の目的は「独リ人ノ肉体ヲ看護スルノミナラズ又タ其霊魂ヲモ慰安シ之ヲシテ真ノ平康ト喜楽ヲ得」させる人物を養成することだ、と述べられています。襄の死後、京都看病婦学校は財政的な理由等で存続の危機にさらされることとなり、同志社の手から離れて佐伯理一郎氏に引き継がれましたが、佐伯氏はこの学校にかける思いを「受けるよりは与えるほうが幸いである」(「使徒言行録(第20章35節)」)という聖句で表し、心を込めて経営にあたりました。京都看病婦学校の名前はそのまま受け継がれ、1951(昭和26)年の廃校まで、看護婦養成機関として重要な役割を果たしました。

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参考/佐伯理一郎著「京都看病婦學校五十年史」写真提供/同志社社史資料センター、京都大学医学部附属病院看護部(不破ユウ)


■先人たちの尊い信念と良心


新島八重



日本赤十字社の正会員となって社会奉仕に情熱を注ぐ
日本のナイチンゲール
新島 八重

新島八重は夫・襄が亡くなった年、日本赤十字社の正会員となり、社会奉仕に情熱を注いだ。1894年(明治27年)の日清戦争の折は、広島の陸軍予備病院で4ヶ月間篤志看護婦として従軍した。八重は40人の看護婦の取締役の役割を果たした。当時の看護婦の地位は低く、また過酷な労働を強いられている。八重一行は八畳四間の手狭な部屋で寝泊まりしながら交替で献身的に働いた。八重は怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めた。翌年(50歳)の1月30日、従軍先の広島において「他日人の妻母たらんとする女学生諸子は、何卒看護の片端なりと心得おられたし」と看護体験の重要性を述べている。1896年(明治29年)、その時の功績が認められ、八重には勲七等宝冠章が授与された。この宝冠章は女性のための勲章である。それについて『女学校期報八』には、特別会員新島八重子は去十二月廿六日叙勲七等宝冠章七拾円下賜、且つ赤十字社特別会員となられたり。是れ二十七八年の役広島衛戍(えいじゅ)病院に於る御働によれるなり。と記されている。その年、襄の母とみと八重の母佐久が揃って永眠した。続く1904年(明治37年)の日露戦争では、大阪の予備病院で2ヶ月間篤志看護婦として従軍し、翌年(60歳)にはその功績によって勲六等宝冠章が授与された。まるで「日本のナイチンゲール」のようである。という以上に、八重の人生は、鶴ヶ城籠城以来、兄覚馬の介護・夫襄の看病、そして篤志看護婦と、介護の一生であったともいえる。興味深いことに、会津で籠城した女性の中に看護婦として活躍した人が何人かいる。井深登世、大山(山川)捨松、瓜生岩子などである。捨松は日赤篤志看護婦会の理事も務めている。八重も含めて籠城の体験が看護婦への道を歩ませたのかもしれない。

 

 

不破ユウ
襄の最期のケアを行い、生涯を看護活動に捧げた女性
京都大学医学部附属病院初代看護婦長
不破(北里) ユウ

北里ユウは、1864 年(元治元年)4 月15 日、北里義正の長女として熊本で誕生した。元治元年というのは、新島襄が国禁を犯して函館から脱国した年でもある。破傷風菌の純粋培養・免疫体の発見などで業績をあげた北里柴三郎 (1853 年~1931 年/ 嘉永6 年~昭和6年)は彼女の従兄にあたる。夫の不破唯次郎(1857 年~1919 年/安政4 年~大正8年)は熊本洋学校在学中にジェーンズ校長から洗礼を受け、洋学校廃校後の1876 年(明治9 年)に創立間もない同志社英学校に転校してきた、いわゆる熊本バンドの一人であった。1879年(明治12 年)6 月12 日の同志社英学校最初の卒業式では「伝道師ハ学術アルヲ要ス」と題する卒業スピーチをおこなった。その内容は不明であるが、卒業後は、福岡・前橋・京都で伝道一筋の生涯をおくった。前橋では前橋英知女学校(現在の共愛学園)の初代校長を務めた人物でもある。最初の妻であったきよは、神戸英和女学校(現在の神戸女学院)の第1 回卒業生で、熊本バンドの一人である金森通倫の夫人と同級であった。彼女は前橋英知女学校の教員としても唯次郎に協力したが1889 年(明治22 年)1 月に夭折した。二人の子どもを抱えて難渋していた唯次郎の妻となったのがユウであった。新島襄が紹介したのである。結婚式は京都で執り行われ、新島が司式した。
1889年(明治22年)10月12日、新島が、病の身でありながら同志社大学設立募金運動のために関東へと出張し、11 月28 日に群馬県の前橋で倒れ、翌年の1月23 日に神奈川県大磯で46 年と11 か月11 日の生涯を閉じたことはよく知られていることであるが、新島のターミナルケアをしたのが不破ユウだったのである。彼女は1889 年(明治22 年)6 月に新島が創設した京都看病婦学校の第2回卒業生であった。妻の八重宛ての書簡(1889年/明治22年12月9日)には「幸いなる事には、不破の奥さま、日々看護に御越し下され、食べ物一切の御世話致し下され候ゆえ、何も不都合はなく、内にてもこれまでと申し居り候次第。また、室内に気を付け、昼夜共、火をたき、暖かになしおり候間、手にも何も落ち度はこれなく候」としたためられている。
1887 年(明治20 年)11 月15 日に同志社病院・京都看病婦学校の開院・開校式が行われた。同志社病院の院長はアメリカン・ボードから派遣された医療宣教師のJ・C・ベリーであった。不破ユウは、ベリー院長からは医学を、そしてベリーの要請に応じてボストンからやってきた日米看護婦の母であるL・リチャーズから看護学を学んだのである。ユウは、「『受くるより与うるは幸なり』聖語をその儘体験された先生の感化は、どれだけ私を励まして頂いたことでしょう」(「ベリー先生の人格の力」『日本に於けるベリー翁』1929年)と、ベリーから受けた感化が、彼女の看護活動の力となっていることに対する感謝の言葉を綴っている。
新島亡きあと、経営難から京都看病婦学校と同志社病院の廃止、売却を検討していた同志社当局(社長は下村孝太郎)に対して、1905 年(明治38 年)10月、その存続を訴える嘆願書が同窓生一同を代表する者たちによって提出された。その筆頭者が不破ユウであった。当時、彼女は京都看病婦学校同窓会長でもあり、現在の京都大学医学部附属病院の初代看護婦長(現・看護部長)でもあった。同嘆願書には設立当初の精神にかえり、開設に協力した多くの有志者のおもいを想起して、仮に同志社のもとでの学校・病院の継続が不可能であるとしても、独立の機関として存続する方途を探ってほしい、と切々と訴えている。結果として経営は同志社の手から離れたが佐伯理一郎によって継承された。不破唯次郎・ユウ夫妻の終焉の地は京都であった。1891 年(明治24 年)に唯次郎は前橋から京都に移り、平安教会の牧師に就任したが、視力を失うことになり、7 年後には引退し、余生を京都教会員として過ごすことになった。妻のユウは、母校の教壇に立ち、同窓会長を務め、京都大学医学部附属病院 初代看護婦長(1899 年~1915 年/明治32 年~大正4 年)にも就任し、京都教会の執事も務めた。夫妻は、若王子山の頂にある同志社墓地で新島夫妻の墓に向き合って眠っている。

 

 

園部マキ
1905年同志社女学校高等普通学部卒

園部マキは1885年(明治18年)12月、宮崎県高鍋藩士藤田半次郎の三女として生まれた。同地の尋常高等小学校を卒業した年に、同郷の士、石井十次に触発されて、はるばる京都に来てキリスト教主義の同志社女学校に入学した。学校生活は苦学を強いられたが、優秀な成績で同志社女学校高等普通学部を1905 年(明治38 年)3 月に卒業した。折しも、京都を旅行中だったアメリカ人一家ヴァクレン氏の令息が腸チフスにかかり、すでに危篤の状態にあったのを、佐伯理一郎同志社病院長が治療し全快するという出来事があった。そのお礼にと、ヴァクレン夫人から看病婦学校生で英語のできる生徒を一人アメリカに連れて行き、十分な看護婦教育をした上で、貴病院で役立てていただきたいとの申し出があった。
あいにく看病婦学校生には英語のできる生徒はいなかったので、佐伯病院長は女学校教師ミス・デントンと相談し、女学校生の中から「英語ができ、かつ、その方面の勉強に意欲ある生徒」として、藤田マキが選ばれた。彼女は看病婦学校1年生に編入し、看護の予備知識を学んだ上で、フィラデルフィア市の長老派教会病院の看護婦学校に入学。看護学・産科学を学んだ。そして実習もすませ優秀な成績で同校を卒業し、しばらくアメリカ各地の社会事業を見学した。帰国は4年後の1909年(明治42年)11 月であった。
約束通り、翌年1月より同志社病院や京都産院で勤務したが、1913 年(大正2 年)には高等看護婦の養成をめざして、自宅に信愛看護婦塾を設置、以後10年にわたり、塾生の実地指導及び訪問看護・助産・保育指導に従事する。この看護婦塾を始めるにあたって強力な助け手となったのが、宣教師ミス・ペックだった。
しかし、ちょうどその頃不況のどん底にあった西陣方面の貧困家庭の惨状を見るに忍びず、1914 年(大正3 年)8 月には信愛保育園(京都市における最初の保育園)を設立して、幼児保育事業に従事する決意をした。この保育園の経営に関しても、ミス・ペックの協力を得て、日本製生地を使って、テーブル掛け・ベッド掛け・洗濯物入れ袋などを製作し、アメリカの友人知人に販売を依頼、僅かながら収入を得た。その他に、マキ自身が府立第一高等女学校の英語教師として働き、その収入を全部つぎ込んで、やりくりをした。ちょうどこの頃結婚した夫園部逸堂画伯の深い理解と支援があったことも特記しなければならない。
1921 年(大正10 年)マキは再度渡米して、児童保護及び社会事業施設の視察と募金を行った。帰国後は保育園経営の傍ら、保育相談・助産施設・婦人身上相談・救援相談・通俗講話・宗教講話・母の会・こどもの会・日曜学校など様々な慈善事業に関わった。また、1934 年(昭和9 年)には、府下最初の母子寮「希望寮」を創設、乳児を持つ母親の保護にあたった。
これらすべての事業に対して、1940年(昭和15 年)、厚生大臣により社会事業功労賞並びに藍綬褒章の栄誉を受けたが、4 年後、長年の過労による胃潰瘍のため59 歳の生涯を終えた。まだ日本では注目されることの少なかった社会事業に、次々と関わり続けた彼女の生涯を顧みるとき、精神面での最大の拠り所となったのは、自身の経営した施設名「信愛」「希望」(※1)が示しているように、クリスチャンとして(※2)の神への信頼であった。また、生涯にわたって物心両面から彼女を支え続けた家族と共労者たち、同志社女学校時代と社会活動を始めてから出会った二人の女性宣教師ミス・デントンとミス・ペック、および信愛保育園後援会を組織して彼女の活動を共に担ってくれた同志社女専時代の関係者に恵まれたことは彼女の大きな支えとなった。
※1)「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」『新約聖書』(コリントの信徒への手紙─ 13章13節)
※2)受洗は1901年(明治34年)6月23日、同志社教会にてJ.D.デイヴィス宣教師による。

 

 

井深八重
ハンセン病の看護と救済に身を捧げた母にもまさる母
「一粒の麦」として
井深 八重
1915年同志社女学校普通学部卒
1918年同志社女学校専門学部英文科卒

井深八重は井深彦三郎とテイの娘として1897 年(明治30 年)に台北で誕生した(※1) 。父彦三郎は井深宅右衛門(会津藩学校奉行、藩校・日新館館長)の三男として生を受けた。八重が7歳の時に、両親が協議離婚した結果、八重 は母とは生き別れている。幼少期の記録は不明な点が多いが、生後ひと月余りで没した弟重彦がいる。重彦の死も離婚の一因であったのかもしれない。その後、明治学院総理であった井深梶之助(伯父)の家に預けられ、教育を施された。小学校卒業後、1910 年(明治43 年)に同志社女学校普通学部に入学、その後、専門学部英文科に進み、1918年(大正7 年)に卒業した。在学中は寮生活を送った。晩年、当時のことを以下のごとく語る。
私がこの道をひとすじに進み得たことは、・・・まず何よりも母校の創立者新島先生の息吹のかかるキリスト教的雰囲気の中で学び得たことに依るものと信ずるのである。母校から頂いた眼に見えないたまものこそ、私の今日までの生涯を力強く支え続けた原動力に他ならないことを確信して、ただ感謝のほかないのである(※2) 。
卒業と同時に長崎県立長崎高等女学校の英語教師として赴任するも、翌年の1919 年(大正8 年)、体調に異変が生じ、ハンセン病と疑われ、御殿場の神山復生病院へ隔離入院させられた。入院後は、「堀清子」を名乗った(※3) 。その後、1922 年(大正11 年)、誤診と分かるが、八重は病院に留まり、当時、社会から見放されたハンセン病患者の看護と救済に生涯を捧げた。ハンセン病克服の歴史に大きな光を灯した八重は患者たちから「母にもまさる母」と慕われた。1959 年(昭和34 年)、ヨハネ23 世教皇より、聖十字勲章「プロ・エクレジア・エト・ポンティフィチェ」を、その2 年後には、国際赤十字から看護婦の最高名誉・フローレンス・ナイチンゲール記章が贈られるなど、その功績をたたえた数多くの賞が授与された。1989 年(平成元年)5 月15 日、「お世話になりました。神様の待っておられるよいところに行きます。喜んで・・・」と八重は静かに息を引き取った。
八重の生涯はハンセン病患者・元患者たちとの共なる歩みであった。「終生、 彼女は控えめで、自分を語ることはなかった」と語り継がれる。神山復生病院墓地の中にカタリナ井深八重之墓があり、自筆の墓碑銘「一粒の麦」(ヨハネによる福音書12 章24 節の言葉)が刻まれている。その言葉は、自らの欲望から解放され、他者と共に、真の希望を見つめて歩み続けた八重の姿を表象している。
八重の歩みを支えた「眼に見えないたまもの」は何であったのだろう。牧野登は会津魂に注目し、アメリカ史研究者の猿谷要が指摘する「サザン・ホスピタリティー」にその真髄を読み解く。南北戦争の敗者である南部には、勝者の北部とは異なる精神世界がある。すなわち、勝者は勢いに乗って傲慢となるが、敗者は挫折感や屈辱感の辛酸をなめ、その敗者の痛みからこそ他人に対する優しさが生まれる。戊辰の敗者である会津には、同様の優しさがあるとの事である。この敗者の論理は聖書の文化に通底する。ヘブライ(旧約)聖書はいわゆる「荒野の歴史」の中で熟成された世界観を提示する。定住の文化の中にある自己実現を求める「自律的」な社会とは全く異なり、そのような社会から疎外された場、人間の思いや期待が無意味化される場で熟成された叡智である。それは、自分の理屈や正しさが打ち砕かれ、自分自身へと閉塞しない新たな世界へ自らが拓かれる事を示唆する。八重の足跡はそのような自由を顕わにする。それこそが彼女の語るたまものであったのかも知れない。
(※1) 牧野は歴史調査の結果、戸籍簿記載はないが台湾の地であったと推測している(牧野登『人間の碑̶井深八重への誘い̶』井深八重顕彰記念会、2002 年)。
(※2) 井深八重「同志社大学名誉学位をいただいて」『しばくさ』第14 号 同志社女子大学1975 年。名誉学位授与の文脈ゆえか新島襄への感謝の意を表面に訴えている。
(※3) 八重はハンセン病患者の当時の慣例に従い、「堀清子」を名乗った。母の養家が「堀」、父の養母の名が「キヨ」であったことに由来したとの説や、聖なる(holy)との言葉をなぞらえたとの説がある。