バックナンバー

第19回 千澄子(セン スミコ , 1920-2004)

191127_records_who19.jpg

1938年高等女学部、1941年女子専門学校家政科卒業。

第12代家元(兪好斎宗守)の長女として武者小路千家に誕生。第13代家元(有隣斎宗守)夫人。第14代家元(不徹斎宗守)の母堂。1951年に千クッキングルームを発足させ、1964年にはこれを発展させて各種学校 千茶道文化学院を設立。100万冊以上のベストセラーになった『日本料理』(主婦の友社、1968年)を筆頭に、懐石料理、家庭料理、和菓子、茶事、しきたり、もてなし、作法などに関する多くの著書がある。懐石料理を中心にした〈茶の湯文化〉の普及と国際親善に多大の貢献を重ねた。1983年に国際ゾンタ京都 I ゾンタクラブ会長。1991年には千茶道文化学院院長に就任した。1998年、文化庁長官表彰を受ける。

このページの先頭へ

第18回 佐伯(林)外浪(サエキ トナミ , 1868-1955)

191127_records_who18.jpg

同志社女学校本科1888年卒業。

長野県松本市生まれ。父は松本藩最後の家老、林中佐衛門良就。同志社女学校の初代宣教師スタークウェザーの薫陶を受け、卒業後は助教として母校で英語と音楽を教える。1892年、音楽を学ぶためアメリカ、アイオワ州テーブル・カレッジへ留学するが、学資の都合でイリノイ州ロックフォード・カレッジに転校(数学を専攻)し、1896年に卒業。1897年再び同志社女学校で教鞭をとった後、1901年から1913年まで東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)で英語教師を務めた。

このページの先頭へ

第17回 甲斐(足利)和里子(カイ ワリコ , 1868-1962)

191127_records_who17.jpg

同志社女学校専門科文学科に1893‐96年在学。

広島県生まれ。生家は浄土真宗本願寺派の寺院(勝願寺)。父・義山は本願寺の勧学・大学林綜理の高職を務めた。1893年25歳で同志社女学校文学専門科に入学、1896年まで3年間にわたって在学した。神戸親和高等女学校、大津高等女学校で教え、1899年京都市内に仏教主義の徳育を本旨とする顕道女学院を創立。翌年夫・駒蔵とともに文中女学校を創設。1910年京都高等女学校を買収合併し、経営権を西本願寺に委譲、1927年まで同女学校教諭・女子専門学校教授。現在の京都女子大学をはじめとする京都女子学園の創始者としてその基礎を築き、女子教育に尽力した。

このページの先頭へ

第16回 禿すみ(眞)(トク スミ , 1876-1950)

191127_records_who16.jpg

1896年同志社女学校普通科を卒業。

福井県生まれ。生家は浄土真宗誠照寺派の寺院(浄覚寺)。幼名は眞(マコト)、または眞子。東京の成立学舎女子部本科を卒業後、同志社女学校に入学。1898年22歳で父・了教とともに福井市に婦人仁愛会教園(後の仁愛女学校、現・福井仁愛学園)を創立。1924‐50年まで仁愛女学校第2代校長。現在の仁愛大学、仁愛女子短期大学をはじめとする福井仁愛学園の基礎を築き、「仁愛兼済」に副った女子の育成に生涯を捧げた。1944年藍綬褒章を受章。

このページの先頭へ

第15回 淵沢能恵(フチザワ ノエ , 1850-1936)

191127_records_who15.jpg

同志社女学校英書科に1882‐85年在学。

岩手県生まれ。29歳のとき渡米し、その地で洗礼を受け、32歳で帰国して同志社女学校に入学するも3年間在学の後退学。東洋英和女学校、熊本女学校(熊本バンドで有名な熊本英学校の付属学校)などで教鞭をとる。1905年、55歳で韓国に渡り、明新女学校(後に淑明女学校、現・淑明女子大学)設立に奔走、学監として同校の経営に尽力する。併合下の韓国での一連の活動には同化主義的な側面も認められるが、高宗妃厳妃が資金を提供し、韓国教育史上初の韓国人女性・李貞淑を初代校長として現在まで続くこの学校が「韓国女性により設立された韓国女性のための教育機関」(『淑明七十年史』)であることは間違いない。

このページの先頭へ

第14回 金末峰(キム マルボン , 1901-1961)

191127_records_who14.jpg

韓国釜山生まれ。1927年、朝鮮留学生最初の専門部卒業生として同志社女学校専門学部英文科を卒業。新聞記者を経て、1932年、歩玉の筆名で短編「亡命女」で文壇デビュー。「密林」、「野茨の家」などで、大衆小説作家のスターとなる。著した作品は、長編小説約30編、短編小説40編にのぼる。文壇での活躍のみならず、公娼廃止運動の先頭に立ち、1947年の廃止後、女性たちの厚生と技術指導のための施設「博愛院」を経営した。さらに、韓国最初の女性長老となるなど、キリスト教界の重鎮でもあった。

このページの先頭へ

第13回 高凰京(コ ファンギョン , 1909-2000)

191127_records_who13.jpg

同志社女子学校専門学部英文科1928年卒業。

韓国京城(現・ソウル)生まれ。卒業後、同志社大学法学部に進学。学位取得後、更に アメリカ、ミシガン大学でPh.Dを取得。梨花女子専門学校教授を経て、1946年、韓国保健厚生部婦人局初代局長。ガールスカウトの育成や大韓赤十字の充実に尽力した。1958年ソウル女子大学を創設、初代学長。1985年同大学名誉学長。1997年同志社女子大学名誉文化博士。

このページの先頭へ

第12回 戸叶(吉田)里子(トカノ サトコ , 1908-1971)

191127_records_who12.jpg

1908年、長野県松本市で吉田頼吉の次女として生まれる。1929年、同志社女学校専門学部英文科卒業。在学中から女性初の外交官をめざす。1930年、戸叶武と結婚。夫が政治家を志していたことから、政治に目覚める。1933-40年、愛宕英語塾、青蘭女子商業学校英語教師。1940-43年、上海「大陸新報」記者。1946年、戦後初の総選挙で栃木県選挙区より立候補し、女性初の衆議院議員となる。同年に、第90臨時帝国議会で、女性として初めて本会議場での演説を行う。以後1970年まで11回連続当選。ヒューマニズムを重視し、「愛情の政治」をスローガンに活躍した。日本社会党代議士会会長に、女性として初めて就任した。

このページの先頭へ

第11回 田辺(星野)繁子(タナベ シゲコ , 1903-1986)

191127_records_who11.jpg

1903年、京都で生まれる。1925年、同志社女学校専門学部英文科卒業。1928年、同志社大学法学部法律学科卒業。専修大学教授。法学博士。弁護士。親族法の研究者として知られる。

古代のインド法に日本と同様の男性優位の思想が見られることに関心を持ち、サンスクリット語からの翻訳による『マヌの法典』(岩波文庫)を1953年に出版した。社会的活動も精力的に行い、人権擁護委員、売春対策推進委員、法制審議会刑事法特別部会委員、労働基準法研究会委員、日本ユネスコ協会連盟評議員、日本国際連合協会理事等の要職を歴任し、藍綬褒章、勲三等宝冠章を受賞した。1978年11月29日、創立103周年記念式において、同志社大学名誉文化博士の称号を授与された。

このページの先頭へ

第10回 園部(藤田)マキ(ソノベ マキ , 1885-1944)

191127_records_who10.jpg

同志社女学校普通学部1905年卒業。

宮崎県高鍋よりキリスト教主義の学風にあこがれて同志社女学校に入学。苦学して卒業後、ミス・デントンの推薦で渡米し、米国フィラデルフィア州の長老派教会病院付属看護婦学校で看護学と産科学を学び、米国各地の社会事業を見学。帰国後は同志社病院や京都看病婦学校に奉職しながら、西陣地域の家庭を訪問して、看護と助産を無料奉仕し、乳児保育の指導をする。その窮状をみて社会事業家として立つことを決意し、京都で最初の保育園(1914年)および京都で最初の母子寮(1934年)を設立。その功により、社会事業功労者として1940年紫綬褒章を受賞。

このページの先頭へ

第9回 内田(土倉)政(ウチダ マサ , 1871-1946)

191127_records_who9.jpg

新島の後援者であった土倉庄三郎の二女。1889年、同志社女学校本科卒業。京都看病婦学校で教えたが、このとき19歳の政をデントンは「教師・生徒・友人」と呼び、「バランスの取れた立派な資質の持ち主で、真の意味で大変謙虚な女性」と称賛した。そのデントンの勧めにより1890年に私費で渡米。フィラデルフィアの語学学校及びブリンマー大学で学び、B.A.を取得して1897年に帰国。1899年、内田康哉(外務省欧米局長、のちに外務大臣)と結婚。二人とも英語に堪能で、婚約中は英文で手紙を交わしたと言われるが、流暢な会話と発音では政の方が優れていたと言われる。1911年、同志社女子大学(同志社女学校大学部)設立準備委員に就任した。

このページの先頭へ

第8回 原(土倉)富子(ハラ トミコ , 1869-1957)

191127_records_who8.jpg

吉野の山林地主で「大和の山林王」、「自由民権のパトロン」と呼ばれ、新島の後援者であった土倉庄三郎の長女。同志社女学校に1885-87年頃在学。1888年、京都・祇園の中村楼で、新島襄の司式、京都府知事北垣国道の媒酌により、原六郎(横浜正金銀行頭取)と結婚。六郎の晩年には、富子が同志社女学校時代に薫陶を受けた金森通倫を別荘に呼んで、夫妻でキリスト教の教えを受けるなど、信仰深い生活を送った。1911年、同志社女子大学(同志社女学校大学部)設立準備委員も務めた。

このページの先頭へ

第7回 松田道(マツダ ミチ , 1868-1956)

191127_records_who7.jpg

同志社女学校英書科に1884-86年、高等科に1892-93年在学。

京都府峰山の裕福な呉服商の家に生まれ、小学校卒業後「京都女学校及女紅場」に入学のため上洛。卒業後「英語の勉強のために」同志社女学校へ。さらにフェリス和英女学校普通部、高等部に進学、卒業してもう一度同志社女学校高等科へ。その時期に、津田梅子主唱「米国婦人奨学学資金」(ジャパニーズ・スカラーシップ)に応募し、第一号受給者に選ばれて1893-99年渡米。ブリンマー大学で学位を取得した。留学に際してミス・デントンから「日本女性のための『新島』となられよ」と激励されたとおり、生涯を日本の女子高等教育のために尽くした。

同志社では、同志社女学校初の女性校長(1922-30年、女専校長1931-33)のほか、理事・同窓会長・寮務主事などを歴任した。

このページの先頭へ

第6回 阪田(大中)京(サカタ キョウ , 1892-1973)

191127_records_who6.jpg

1892年、大中直三、幹の娘として東京で誕生。14歳で大阪へ移住、ウヰルミナ女学校(現・大阪女学院)を経て、1909年、同志社女子専門学校英文科へ。卒業後、阪田素夫と結婚。教会オルガニストとして活躍。YWCA、キリスト教矯風会の大阪支部設立をはじめ、女子教育に力を注いだ。母校の大阪女学院理事、同窓会長を歴任、「大阪女学院同窓会のママさん」として、多くの同窓に親しまれた。1974年、母(京)をモデルに阪田寛夫が著わした『土の器』が芥川賞を受賞した。

資料提供・協力:大阪女学院資料室 黒田順、杉浦香、内藤啓子

このページの先頭へ

第5回 谷川(長田)多喜子(タニカワ タキコ , 1897-1984)

191127_records_who5.jpg

同志社女学校普通学部1915年、専門学部英文科1918年卒業。

父は政友会代議士長田桃蔵。姉花子も同志社女学校で学び、専門学部3年のとき『女学校期報』第41号(1917年12月)に英文エッセイ“The Emancipation of Women”(女性の解放)を寄稿している。卒業後は、音楽学校でピアノのレッスンを続けた。哲学者谷川徹三の妻、詩人谷川俊太郎の母。

卒業3年後のある音楽会で、当時京都帝国大学の学生だった谷川徹三と出会い、2年後に結婚するが、その間多数の恋文を交わす。没後子息・谷川俊太郎氏が、残されていた恋文537通の約四分の一をまとめて出版したのが『母の恋文』(新潮社 1994)である。俊太郎氏のご好意により恋文全てと谷川徹三・多喜子夫妻の写真多数が同志社女子大学史料室に寄贈されている。

このページの先頭へ

第4回 清水(横田)美穂(シミズ ミホ , 1896-1933)

191127_records_who4.jpg

1896年、横田耕太郎と外鶴の長女として、彦根で誕生。横田家は近江(彦根)を領した(大名)井伊家に仕えた武士の家系。美穂の祖父与左衛門は家老に継ぐ役職に就き、知行3500石を受けていたと言われる。幼くして実母外鶴と別れ、継母に養育された。彦根の実科女学校にて教育を受けた後、二人の叔母の援助を受け、同志社女学校に進学。1916年普通学部卒業。1918年女子専門学部卒業。卒業後、清水安三と共に中国にて災童救済事業を実践。崇貞女子工読学校での教育実践を基とし、1931年崇貞女学校(現「陳経倫中学」)を創立。中国、朝陽門外において、貧窮の現実の中ある婦女子への教育に従事。1933年12月19日、結核に冒され、京都の自宅にて永眠(38歳)美穂の遺志に従い、崇貞女学校の敷地内に葬られた。

資料提供・協力:桜美林学園 清水畏三、清水賢一、小林茂、 山崎朋子

このページの先頭へ

第3回 井深八重(イブカ ヤエ , 1897-1989)

191127_records_who3.jpg

1897年、井深彦三郎とテイの娘として台北で誕生。元明治学院学長井深梶之助(父方の叔父)家にて幼少期を過ごす。

1910年、同志社女学校普通学部に入学。専門学部英文科に進み、1918年、卒業。卒業後、長崎県立長崎高等女学校英語教師として赴任。1919年、私立カトリックらい病(ハンセン病)院神山復生病院へ隔離入院。「堀清子」を名乗る。1922年、誤診とわかるが、病院に留まり、看護婦学校で資格を取得して、ハンセン病患者の看護と救済に生涯を捧げた。1959年、教皇ヨハネ23世より、聖十字勲章「プロ・エクレジア・エト・ポンティフィチェ」を受賞。1961年、国際赤十字より、フローレンス・ナイチンゲール記賞を受賞。1975年、同志社大学より名誉博士号を授与。1978年、昭和52年度朝日社会福祉賞を受賞。1989年5月15日永眠。

このページの先頭へ

第2回 星名(末光)ヒサ(ホシナ ヒサ , 1874-1954)

191127_records_who2.jpg

同志社女学校普通科1898年卒業、専門科文学科1899年中退。

愛媛県下の素封家に生まれる。星名謙一郎(海外で開拓事業のかたわら熱心に伝道にとりくみ、移民社会のために様々な貢献をした人物)との結婚のためにハワイに渡り、後にテキサスに移住した。1907年に帰国し、松山女学校(現・東雲学園)で教鞭をとった(英語、洋裁、刺繍、家事を担当)後、デントンに強く請われて、1913年に同志社女学校に着任し、裁縫を担当する。1930年より女専教授。ヒサは「同志社女子部の母」デントンの〈最大の理解者〉〈無私の協力者〉となり、第二次世界大戦中も含めて、37年の長きにわたり、デントンを世話し、支え、守り続けた。

このページの先頭へ

第1回 武間(大澤)冨貴(ブマ フキ , 1899-2004)

191127_records_who1.jpg

同志社女学校専門学部英文科1919年卒業。

大澤商会の創業者で京都政財界の重鎮、大澤善助の孫娘。善助の長男・徳太郎の次女。実業家の武間亨一と結婚後、2年半インドに在住。帰国後は、京都YWCA幹部委員、同志社評議員として活躍し、1941年から35年間にわたって同志社同窓会会長(1976年より名誉会長)、同志社理事、同志社幼稚園園長(1951年より名誉園長)、京都・ボストン姉妹都市提携委員、京都家庭裁判所参与委員、国際ゾンタ 京都 I ゾンタクラブ会長などを歴任。多大な社会的貢献により勲四等瑞宝章(1970年)、最高裁判所長官賞(1976年)、同志社大学名誉文化博士号(1978年)などを授与される。

このページの先頭へ

Who's Who