モンポウの新発見(?)作品について

2018/10/16

椎名 亮輔 (学芸学部 音楽学科 教授)

 

私は2013年に1年間バルセロナに滞在し、カタルーニャ近現代音楽、とくにフラダリック・モンポウの音楽について様々な調査を行なった。そこでカタルーニャ国立図書館にモンポウの書簡が現存のものは全て保管されており、また彼の友人で作曲家のマヌエル・ブランカフォルトのモンポウ宛の書簡もブランカフォルトの子孫たちで設立されたブランカフォルト財団に保存されていることを知った。つまりカタルーニャ国立図書館のモンポウ書簡のうちブランカフォルト宛のものと、ブランカフォルト財団にあるモンポウ宛書簡を付き合わせれば、彼らの完全な往復書簡が手に入ることになる。これらを全てバルセロナ滞在中に入手して私は2014年に帰国した。そして、それらを整理して解読し、翌年から日本語の翻訳もつけて、本学の紀要に少しずつ発表して来ている。

それらを翻訳しながら入念に解読し、解説を施す作業を続けるうちに、1927年から1928年頃の彼らの書簡の中で、モンポウの作曲で現在ではどの作品表にも記載されていない作品への言及があることに気が付いた。

まず1927年1月にバルセロナで、ジャーナリスト・作家のジョセップ・マリア・ジュノイが創刊した月刊芸術誌『ラ・ノバ・レビスタ(新雑誌)』への協力が彼らの間で話題となる。付録として楽譜を出版するという計画で、そこにどのような作品を載せるかという相談の中、「『ラ・ノバ・レビスタ』の付録の話はどうなった? そこにぼくが《ポール・ファルグへのオマージュ》をもっていることを思い出してくれたまえ。なくさないように。」(書簡149、1928年7月)とモンポウがブランカフォルトに念を押したりしている。これがその「どの作品表にも載っていない新発見の作品」である。これは何なのだろう、ということから色々と調査をしてみた。

この『ラ・ノバ・レビスタ』は、全号のファクシミリがインターネット上で閲覧可能であり(バルセロナ自治大学図書館のサイトhttps://ddd.uab.cat/record/27381)、未発見モンポウ作品を探して参照して見たのだが、モンポウの作品はおろか、そもそも「楽譜の付録」などが見当たらない。残念ながら「楽譜の付録をつける」という彼らの計画は実現しなかったようなのだ。

諦めかけて、この雑誌の内容をとりあえず全体的に眺めていた時に、ふと目に止まった記事があった。この雑誌には、諸外国での芸術や文化の動向をレポートする「[芸術界の]近況Noticiari」という欄があり、1928年2月号のそれに、ブランカフォルトがパリで楽譜を出版したこと、ビニェスがパリで賞賛され、有力マネージャーと契約したこと、そしてモンポウがパリのオペラ座から仕事の依頼を受けたことなどが語られている後に、『自由葉叢Les Feuilles libres』誌の「レオン・ポール・ファルグ」号にビニェスとモンポウが協力したことが述べられているのである。

「ポール・ファルグ」! これだ!

フランスの詩人レオン=ポール・ファルグLéon-Paul Fargue(1876〜1947)は、モーリス・ラヴェルやリカルド・ビニェスらが組織していた若手芸術家集団「アパッシュ」にも所属し、音楽家の友人も多くもっていた。だからビニェスとファルグは直接に結びつくし、モンポウはパリで音楽界や社交界に入って行くのに、この同郷のピアニストでラヴェルの友人でもあるビニェスに非常に世話になっているのである。こうしてファルグ・ラヴェル・ビニェス・モンポウは一直線に結びつくのである。ということで、私の調査は次にこのパリの芸術雑誌へと矛先を変えた。

この雑誌は、詩人で作家のマルセル・ラヴァルMarcel Raval(1900〜1956)を編集長として、1918年から1928年まで発刊されていた芸術雑誌である。彼は非常に裕福で、自分の好きなように雑誌など作ることができたようだ。コクトーや「六人組」に近しい存在だったらしく、この雑誌に寄稿していたのも、サンドラール、コクトー、ラディゲ、プーランク、オーリック、ミヨー、ジャン・ユゴー、ファルグなどであった。特にサティが彼の『音楽時報』や『健忘症患者の回想』などを書いたことで知られている。(サティは1920年代以後はラヴェルのことが嫌いになり、ラヴァルのことを「あのバカなラヴェルとは違うラヴァルだよ」などと言っている。)

さて、その1927年6月号は「ファルグへのオマージュ」特集号で、多くの詩人文人芸術家たちが寄稿する中、ラヴェル・ビニェス・モンポウが音楽作品を寄せていることが判明した。これこそが『ラ・ノバ・レビスタ』で言及されている「ビニェスとモンポウの協力」のことであろう。色々と調べてみると、ラヴェルの作品はファルグの詩による、声とピアノのための《夢Rêves》、ビニェスのはピアノソロのための《クリノリンあるいはモンティジョ時代のワルツ — レオン=ポール・ファルグへのオマージュCrinoline ou La Valse au temps de la Montijo - Hommage à Léon-Paul Fargue》。そして、モンポウの作品は《シャンソン — レオン=ポール・ファルグのためのChanson - Pour Léon-Paul Fargue》と題されている作品である。このうち、ラヴェルとビニェスの作品はその後、それぞれ独立して出版されている(ラヴェルは同年にデュラン社から、ビニェスは1945年に在スペイン・フランス学院L’Institut français en Espagne から)。

モンポウの作品のみが、その後出版もされず、現在のどの作品表にも載っていない。これは何だろう? 実際の雑誌本体を手に入れてみるしか方法はなさそうだ。調べてみると、日本の図書館でこれを所蔵しているのは、東大教養学部外国語科のみであることがわかった。皮肉なことに、私が東大助手を務めていた時には自由に出入りしていた場所である。その当時にこのようなことになることがあらかじめわかっていれば、見ておいたものを……。様々な煩瑣な手続きを厭い、結局インターネットで古書店を探し、いくつかのサイトでは売り切れで、肩透かしを食いながらも、最終的に入手することができた。

結論から言えば、この作品は、後の「レオン・ポール・ファルグの思い出にà la mémoire de Léon Paul Fargue」と副題のある《歌と踊り》第12番(1962年作曲、翌年サラベール社から出版)の「踊り」部分と全く同じ音楽である。
しかし、決定稿はロ短調であるが、これはハ短調となっているし、タイトルも「踊り」ではなく、「歌chanson」である。《歌と踊り》第12番が発表された時には、ファルグは亡くなって15年が経っていたので、追悼の意味を持つ「〜〜の思い出に」と題を付けるのは理にかなっていると言えるだろう。そして、もともとが「歌」だったのに「踊り」になってしまったこと、調性が半音下がっていることに関しては、ペアになった1962年の「歌」の方とのバランスが理由となったのだろう。1962年「歌」はカタルーニャ民謡に基づいた、嬰へ短調のゆっくりした三拍子の曲である。それに比べれば、この1927年の「歌」は三拍子でテンポが速い。これを「歌」にするよりも「踊り」にする方が、「歌と踊り」のシリーズでもあることだし、理にかなっている。また調性に関しても、ロ短調の方が嬰へ短調との繋がりが良いのは明らかだ。

ということで、いちおう私の「モンポウ未発表作品」についての調査探求は音楽的には「新発見」というようにはならなかった。しかし、この《歌と踊り》第12番の歴史については、どこにも語られていないので、その意味ではこれを「新発見」と言うことも可能なのかな、とも思わないでもない。雑誌の表紙の写真とモンポウの楽譜の部分(自筆譜)の写真を掲載しておく。

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※所属・役職は掲載時のものです。