9月に思う : L .リチャーズのチャレンジ・スピリット
岡山 寧子(看護学部 教授)
9月に入り秋の気配を感じるようになると、いつも思い出すことがあります。それは、同志社での看護教育がスタートした月であるということです。そのスタートは1886(明治19)年のことですから、今年はちょうど130年目にあたります。京都御所の蛤御門のすぐ近く、宣教師館デイヴィス邸でその教育が始められました。翌年には、その地に病院・学校が建てられ、京都府から正式な許可を受けています。
看護教育の責任者として、アメリカでも看護のパイオニアであるL .リチャーズ(Melinda Ann Judson Richards,1841-1930, 以下リチャーズ)が担当し、先進的な看護教育を実践しました。当時、発展し続けていたアメリカ看護界のリーダー的存在であったリチャーズがどのような経過で来日したのか、それには諸説があるようです。しかし、『自分に与えられた役割を果たすため』という強い志をもっていたことは確かです。彼女は、サンフランシスコでCity of Sydony号(American Steamer)に乗船、ハワイを経由して、1886(明治19)年1月21日横浜に到着しました。約1ヶ月の長い旅でした。そして、すぐに京都に向かい、看護教育を始めたのかというと、そうではなかったようでした。京都での看護教育の開始は、その年の9月からといわれていますので、横浜に着いてからの約8ヶ月の準備期間があったようです。では、その期間、彼女はどのように過ごしていたのでしょうか。いろいろな資・史料を探ると、彼女はそれまでに経験したことのないような幾つかの出来事に出会っていたことがわかってきました。それは、日本での看護教育を実践していく上でのほんの助走だったようにも思います。ここでは、それを垣間みるために、横浜到着から京都での看護教育を始めるまでのリチャーズの足跡をたどってみようと思います。
横浜到着から2日後、リチャーズはTeheran号(British Steamer)に乗船、神戸に向けて出発しました。神戸ではアメリカン・ボードの宣教婦人達の出迎えを受け、日本人宅での集会に参加するなど、日本文化に触れ始めるのですが、程なく日本を離れることになります。京都の宣教婦人の健康回復のための上海での静養に付き添うことになったためです。彼女には、宣教看護婦として宣教師達への健康管理の役割をも期待されていたことがうかがえます。彼女自身は、上海滞在中も、慣れない地での宣教婦人への看護に携わりながら、日本語を学びたいという思いを持ち、はやく日本での看護を実践したいという希望を持っていたようでした。
リチャーズが上海から神戸に戻ったのは、3ヶ月余り経った4月初めでした。残念なことに、リチャーズが付き添っていた宣教婦人は、その後すぐに亡くなってしまいます。リチャーズはこの経験で、しばらくは何もできないくらい心身共に疲労困憊した状況になったようでした。それでも休養後には、日本の勉強や伝道のためにと岡山を訪れ、意欲的に活動しています。姫路や高梁にも足をのばしていたようですが、岡山滞在中にコレラが大発生し、リチャーズは1ヶ月以上足止めとなってしまいました。この年は日本中にコレラが大流行しています。京都も同様で、この年の葵祭が中止になったといわれています。足止めとなった彼女は、その専門性をもって、直ちにコレラで隔離されている患者への看護をしたいと行政に申し出たのですが、かないませんでした。行政の立場上、申し出を断らず得なかったと推測されるのですが、彼女にとっては、おそらく、日本での生活に少しずつ慣れていく中で、早く看護に関わりたい、役に立ちたい、だけどなかなか思うようにはできないという気持ちで、焦燥感をもちながら過ごしていたのではないかと想像できます。しかし一方で、先の彼女の申し出が、美談として岡山の地元新聞に大きく掲載され、リチャーズの来日が知られることとなりました。そして当時の女性誌『女学雑誌』にもその記事が紹介され、京都看病婦学校で教鞭をとるアメリカから来た看護婦リチャーズとして日本にその名を広める1つのきっかけとなったようです。
横浜に到着してから半年余り、上海や岡山での様々な出来事を経験して、いよいよ京都に向かいます。7月下旬のことです。この時期、京都の宣教師達は避暑も兼ねて比叡山に集っていました。リチャーズはそこに合流します。それまで同志社病院・看病婦学校設立準備に尽力していた宣教医J.C.ベリー(John Cutting Berry, 1847~1936)は、そこでのリチャーズの様子について、日本語も上達し、新しい仕事の準備に入っていること、8月末には京都に戻り、診療や看護教育を開始することなどを伝えています。この時、リチャーズは彼と共に京都での病院・看病婦学校の開設準備に対して大きな希望を持ってすすめていたことがうかがわれます。
やっと京都の地で看護教育が実践できる・・・リチャーズはそんな思いで、比叡山から京都市内の風景を眺めていたことでしょう。遠い異国の地、日本での看護教育の実践への思い、その思いを高めていたものは何だったのでしょうか。それは、宣教看護婦のとしての使命感は勿論のこと、アメリカで培ってきた看護専門職としてのプライド、そして彼女の人生がずっとそうであったように看護への限りないチャレンジ・スピリットそのものだったにちがいありません。
※所属・役職は掲載時のものです。